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日本キリスト改革派 田無教会

2020年10月11日「神の国が来る時」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書17章20-37節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

私たちはイエス・キリストを信じている。言い換えると、今ここに、神の国、神の支配を信じて生きているかということにつながる。その時に、「神の国はいつ来るか」と問うのは、既に到来している神の国を信じていないことだからだ。主の御業を見てはいるが見ず、聞いているが聞いていないことになる。

 ルカは21節の初めで「神の国は、見える形では来ない。」と言っている。ファリサイ派の人々は、自分たちの本当に熱心な真剣な思いから、神の支配を自分たちの信仰の目でみてとろうとした。それを繰り返していくうちに、罪の故に始めて見えなくなってしまった。

 主イエスは、ファリサイ派の人々に内側を清めなさいと何度も戒めておられる。しかしそれは、神の国を私たちの心の中に閉じ込めてしまうことではない。神の支配が私たちの心の中に収まってしまうということではないからだ。

 一人で戸を閉ざして、自分の内面を見つめて満足するようなことが神の御心を知り、神の国に生きることなのだろうか。そうではない。神の支配は、あなたがたのただ中にあるのだと主ははっきりと指摘されている。では、「あなたがたのただ中」それはどこなのか。

 まず第一に教会である。礼拝に集まること。キリストの名によって洗礼を授かった者たちが集まるところに、イエス・キリストご自身がいてくださる。その確信をもって生きるところに、神の国の現実はあるのだ。キリストの支配は既に始まっているということを、御言葉を聞くことによって知ることができるからだ。主はすでに聖霊によって、神の支配の中においてくださるということが起きている。私たちの信仰は内面をどんなに深めても、それだけではむしろ信仰の本質から離れて行く。

 そして第二に、神の支配は、私たちが生きて行く世界のまっただ中にあるということだ。単純に素直に考えて、主が語る「あなたがた」と問う相手は誰か。それはファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問に答えているからだ。あなたがたの信仰というものを見てご覧。それは、わたしを十字架につける決心なのではなかろうか。人々は神の国が現れる姿は、十字架なのだということを一度も考えたことはないのだから。主イエスが告げる神の支配を、偽りの支配だといって叩き潰そうとしたところに神の民の姿が現れた。だがそれに反するように、主イエスはそこに神の愛の支配を始めておられる。ものすごい力をもって始めておられる。神の国はそこに開かれるのだ。

22節以下に「人の子」という言葉が5回も出てくる。私の罪を救うために神の御子イエスさまは「人の子」となられた。また自ら「人の子」と呼ぶことを恥とされなかった。この「人の子」は、ユダヤ人が世の終わりに神の勝利をもたらすために現れる方、つまり救い主として待ち望んでいたものだ。この「人の子」とご自分が同じものであると主は言われる。人の子の日、その日に人の子イエスさまは再び来てくださるという。主の再臨を信じるということは、この世がいつまでも続くのではない。最後には、必ず主イエスが来てくださり、結末をつけてくださるということだ。

22節には「それから、イエスは弟子たちに言われた。」とわざわざ弟子たちに向き直して「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないであろう」と言っている。人の子の日なのだから当然人の子の姿を見ることができる日であるはず。しかし、主はその期待を強めるどころかそれを見ることのできない時がこれから来ると言われる。

 教会は主イエスの姿を見なくなってから生まれたのだ。もちろん最初に主にお会いした人たちの証言が教会の信仰の歩みの原点となったことは間違いない。しかしその後の教会では、主イエスご自身は、見える形では、肉声の声を聞くということにおいては不在である。

 だからこそ、逆に一層主にお目にかかりたいという願望が強くなる。「主よ、いつまでですか。いつまで待つのですか」と信仰者は心細くなる時、困窮に直面した時に発するであろう。そのような時、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と人々は言うだろうが、出て行ってはならないと主は言われる。主の再臨のしるしを問い、その兆しを追い求めて走り騒ぐのが、教会の生活の本質ではないからだ。それは信仰的な行動ではない。24節「いなずまが天の端から出て天の端へとひらめに渡るように、人の子もその日には同じようである。」ということは、思いがけない時に稲妻が光るように、主イエスも思いがけない時に来るからである。その言葉に確信をもって待っていればよいのだ。

 重ねて25節「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」と不思議なことを主は言われる。主イエスは御自分が勝利する日を語りつつ、そこで十字架の苦しみについて語らずにはおられなかったのだ。そこに救いの急所がある。苦しみがまず起こる。しかし、その苦しみに続いてこそ光が生れる。ひらめく稲妻のように、人の子の日が輝くのは、今この私が世の人々によって捨てられることから始まるのだと。

 その厳しさに対して、弟子たちは「主よ、それはどこで起こるのですか。」と質問すると、「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と主はさらに厳しい言葉を語られる。それは御自分の来られることが、命をもたらす、と同時に死や滅びをもたらすものであることを明瞭にお語りになっていることにつながる。もちろんここでは、弟子たちに対して、永遠の命の支配に立つようにとの招きであることは間違いない。はげ鷹の集まるところに置かれるのではなく、すでに私たちが生きることを願われてのことだ。

 将来については、何が起こるかまったく見通しが利かない。でも主が来られることを信じるならば、前を見続けることができる。主のお出でを待ち望むことができる。先になお、困難な苦しみがあるとしても、すでに背後にある主の御苦しみが、私たちを支える。後ろから支えられるから前を見ることができるのだ。ここに神の愛がある。私たちの救いの希望があるのだ。


田無教会牧師 中山仰

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