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2020年10月25日「気を落とさずに祈り続ける」主日礼拝

日本キリスト改革派 田無教会

  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章1-8節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 18章は祈祷に関するルカ独特の譬え話が、2つ組み合わされています。このルカ独特の二重の性格は、ここの段落の構造上にも認められます。序文で「祈ること」が主によって教えられた後「不正な裁判官とやもめのたとえ話」があり、それに結論的な教訓が加えられますが、6-8節の前半の「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」という教訓と、8節の後半の「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」というように、文面は明らかにその二重性としておかれています。そこでは、「神」が「人の子」に代わり、「祈り」が「信仰」に代わって記されています。

このように1つのたとえ話に二重の結論が加えられることは、ルカの福音書では珍しくありません。そしてその場合、通常では2つ目の結論がルカの独自文となります。

たとえ話のモチーフは、(3節)「相手を裁いて、わたしを守ってください」や、(7節)「選ばれた人たちのための裁き」(8節)「神は速やかに裁いてくださる」という言葉にあります。これは人々の中傷から守ってくださること、あるいは敵に対する報復することを表します。この個所を聞いている初代教会の信徒たちは「復讐するは我にあり」と言われる神を「夜昼求めている」状況に置かれているほど追い込まれていたからです。

やもめは、旧約時代以来、特に人間的に顧みられなくとも神から特に守られることを保証されてきています。ですから、神は祈りの執念深さから応答に急き立てられるのではなくて、神は御自身の正義のための報復と弁護のために自ら立ち上がられるということがはっきりしています。ですから、ここで祈りなさいと命じられていることは、一般の祈りのことではなくて、神の最終的な報復を信じて強く祈り求めなさいということになります。その時主が一番心配されることは、私たち信徒の「信仰」なのです。

では、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」の側から考えてみましょう。「神を畏れず」というのですから、この裁判官が「不正」であると言われることがよく表れています。「うるさくてかなわない」とは「打撃を与えられる」ことに繋がる言葉です。また「ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない」とは、「(目的を果たすまで)終わるまでやって来て、私の目の下を黒くする」という意味です。これも打撃を受けて目の下を黒ずませることです。これはやもめが裁判官に直接暴力を振るうということではありません。その意図は、弱い立場のやもめは目の下を黒ずませるほどの執念深い訴えを続けるという強い意味になります。

 私たちは、通常取り上げてもらえず、聞きあげてもらえない、痛み、悲しみ、窮状等々を抱えているのではないでしょうか。社会環境の中で、私たちもやもめに例えられるように弱い立場なのです。その私たちの困窮は、いつの間にかあきらめに変わっているのではないでしょうか。そのような中にあって信仰者の特権は、必ず「神が聞いてくださる」という強い希望を与えられていることです。それを信じて、このやもめのように、どんな時でも「気を落とさずに絶えず祈り」続けなければならないのです。

このように、キリスト教信仰に諦めはありません。確かに信仰生活上、忍耐と忍従を強いられるときがあります。でも私たちが待つと同時に、それ以上に神の側が憐れみを覚えてくださっているというそのような愛を覚えたいのです。

 青あざどころか、人々の救いのために、主イエスが十字架へと赴いてくださったのです。あらゆる侮辱にたえながら、傷つき、血を流されたことを私たちは常に覚えたいものです。この救い主において完全な救いがもたらされているのです。その強い信仰の上に祈り続けることができます。それゆえ、本当に気を落とさざるを得ないような場面でさえ、そのような時にこそ絶えず祈り続けなければならいことを教えられます。

 なぜなら、その弱い私たちのために、主御自身が王であられるのに、全く私たちと同じ人間になってくださったではありませんか。さらに人々から疎んじられ、軽んじられ、忘れられ、侮られることを通して、主御自身が祈ること、信じることを学ばれたのです。この方以外に救い主はいません。それは私たちが、そのような信仰を持つことから遠かったからです。そのため主は無力な姿を取られました。しかし、その勝利は、十字架という敗北の姿を取られますが、最後には捨てられた犯罪人としてのその苦難と死とにおいて、私たちの目には隠されているように思えます。しかしその方法を取って、私たちの信仰がなくならないようにと復活の後、なお神の右において執り成しの祈りをしてくださっているのです。

「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスが心配されることがないようにとおっしゃいます。もし心から信じる強さを強調するだけならば、人間の側の自分の信仰の強さや努力になってしまいます。そうではなくて、あざができるほどのしがみついてでもぶらさがっている信仰をここでは教えてくれています。弱い私たちのために、弱いことをご存知であるゆえに、主は父なる神の右におられ執り成しの祈りを捧げ続けてくださっているのです。イエスさまが諦めずに絶えず祈ってくれているのです。どうして私たちが気を落とし、諦めてよいのでしょうか。矛盾となります。もう一度、主の十字架の恵みを深く覚え、その主が必ずもう一度来られるという確信を強く覚えたいものです。

田無教会牧師 中山仰

 

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