聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章15-17節
メッセージ:中山仰牧師
1.聖書に子供の登場箇所はここと9:14の2か所しかないので、貴重な箇所となる。
ここで「乳飲み子までも連れて来た」とあるから少し大きな子供たちも連れて来られたことは間違いない。当時の習慣で、偉いラビと呼ばれる先生に祝福してもらうために幼児たちを連れて来たのに、「弟子たちは、これを見て叱った」とある。それは決して悪意からではなく、イエスさまの不眠不休のお働きに対しての気遣いであった。ところが主イエスは、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。とおっしゃっている。
このことから子供たちも礼拝に招かれている。教会によって、子供たちを母子室に入れて分けている教会もある。しかし、改革派教会の伝統はそうではなかった。子供たちも一緒にたくさん出席するスタイル。それこそ神の民の共同体の礼拝なのだ。もちろん子供たちをおとなしくさせるためにも、大人と組んで受付や礼拝献金を集める係とか工夫は必要である。
しかし根本的な点は、彼らも神の民の一員なのだということである。旧約の時代の割礼は、神の民の印である。通常割礼は子供たちに授けるのだ。神と契約を結ぶときに、そこには間違いなく子供たちも含まれていた。
旧約から新約の時代になっても、信徒の子供たちは新しい契約の民であることは間違いない。私たちの教派では子供たちも未倍餐会員という名目で扱っている。教会から離れている子供たちのためにも未陪餐会員として祈っている。彼らにも主が手を置かれていることを覚えるからだ。このように子供は主が愛し、間違いなく手を置かれた存在なのだ。
2.「神の国はこのような者たちのものである」という言葉は「子供たち」ではない。子供のようにとは「純真な心を持つ者」と考えやすいが、大人に訴えている。
単純に「子供のような」だけでは、分別がないのだから誇ることはできない。まして乳飲み子だったら親から世話をしてもらう以外に、何もできないのだ。子供にとっての生き方は、心砕けて全くの信頼による以外にない。そのように、「神の国」に入れる者たちは、主イエスを受け入れることであるというのだ。なぜなら、このお方は飼い葉桶の中に生まれられた、そして十字架へと黙々と引いて行かれたのだ。その行為がまさに私の命を救うことと心から感謝と献身をもって臨むことなのでなかろうか。
前の段落は「ファリサイ派の人と徴税人の祈りのたとえ」では、神の前に立つことすらできない徴税人がただ主の憐れみにを乞うて義とされたのだ。それこそまさに「子供のような」といわれるような、親への全幅の信頼以外の何物でもない。後者は金持ちの青年に、天の国に入るためには一切を投げうって主に飛び込む以外にあり得ないと言われている。そのような2つの記事の間に置かれていることから、「幼子のように」とは単なる子供のようにという意味ではないことが分かる。
3.祈りの終わりに、「アーメン」と唱える。これはアラム語のアーメンがギリシャとに置き換えられて使われている。この言葉は、元々の意味は「身を投げかける」という言葉から派生している。全面的に受け入れるということになることから真実となった。
イエス・キリストという方がどのように生きて下さったか、最後のところでこの方にすべてを投げかけることをもって祝福に導かれるのだ。どんなに知識があろうとも、この世で名声を得ようとも私たち自身の中に支えられるべきものは何もないからだ。最後は神の御手に委ねる以外にない。すぐる火曜日に、福原マス子姉の葬儀を執り行わせていただいた。大変に悲しい思いである。しかし、ぎりぎりの場面では、私たちの手ではどのようにもできない。だからこそ、すべての神に委ねる以外にない。その時、鮮やかに復活された主イエスに委ねることのできる幸いを改めて感じた。人間がどのような一生を送ろうとも、最後は神の恵みのみである。私たちの力は一切助けにならない。ただ神のみ旨の中にのみしか平安はない。神の国は、そのように「アーメン」と身を全面的に投げかけ、心から慕い、信じ、着いていく者たちにのみ与えられるのだ。
事実神の御子イエス・キリストがこの世にお出でになられたということ自体、神の愛の顕われでなくて何であろうか。ご自分が愛されることを求め、ご自分が愛されるところで、神の国その人に受け入れられることを求めておられるのだ。そのように教え、生き、愛を求めて歩いておられる主イエスにとって、主に愛の手を置いていただくことを求めてきた幼子たちの姿はどんなにか喜びであったことであろうか。
ロシアの文豪トルストイの一番好きな作品は、『靴屋のマルチン』であったと娘さんが書いている。主人公のマルチンに御言葉を通して信仰に立ち返らせる話だ。いろいろな人を通して主が現れてくださる。「この小さい者にしたのはこのわたしにしたことなのだ」と。トルストイの一番基本に、このアーメンなる神の愛があったのだ。
一切の議論をやめて、ただひたすらに神に愛され、また求められるがままに神を愛し抜く。そしてそこに見えてくる神の愛を受け入れて生きる。信仰の歴史は、そのようにして作られてきたのだ。この後もそうであり続けたい。
田無教会牧師 中山仰
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