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2020年8月30日「心が躍る命の御言葉」主日礼拝

日本キリスト改革派 田無教会

  • 聖書箇所:新約聖書 ヨハネによる福音書4章1-15節

  • メッセージ:豊川修司教師

 

二人の会話を通して、主イエスが与える水とはいったいどのような水なのかを、明らかにしていきたいと思います。13、14節、イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

二人の会話はどのように始まったのでしょうか。主イエスは長旅の疲れから、井戸の傍に座っていました。弟子たちは街へ食べ物を買いに行っていたその間です。丁度、真昼の真盛り、太陽が容赦なく照らす時間帯に、一人のサマリアの女性が水を汲みにきたのです。 

主イエスは早速、サマリアの女性にこうお願いしました。7節「水を飲ませてください」その女性は主イエスの顔を見るや否や、何と驚く言葉を発したのです。9節、すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言ったのです。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

 実は、ユダヤ人とサマリア人は口も利かず、交際もしなかったのです。それもそのはず、紀元前900年頃、イスラエル民族はもともと一つでしたが、北イエラエルと南ユダに分裂してしまいました。北イスラエルはサマリアを首都とし、南ユダはエルサレムを首都にしたのです。それ以来、交際もしない、互いにいがみ合う犬と猿の間柄になったのです。サマリアは先祖代々、モーセの教えと偶像礼拝が中心だったのです。だから、ユダヤ人の主イエスが、サマリアに入るということ事体、とても危険なことでした。その場所に主イエスの一行は入っていったのです。

 予期に反せず、サマリアの女性は、主イエスに水一杯をあげるどころか、攻撃的な言葉をかけて主イエスを困らせました。ここから、主イエスと女性の会話の攻防が始まります。主イエスは、敵対心をもって責める女性の心を見ぬきました。女性の心の奥底を開き、救いの御言葉に心を向けるように、次の言葉を与えたのです。

10節、イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

主イエスはこの御言葉の中で2つの大切なことを教えます。

① 神の賜物とは、主イエスを通して、神様から一方的に与えられる恵みのことです。井戸から汲む水は、溜まった水です。しかし、主イエスが与える水は、もっと冷たく、一杯飲んだだけで、生きた心地のする水です。しかもその水は、神のご意思で、お金を払わず、ただで与えられるものです。

② そして「水を飲ませてください」と言った方は、神の独り子、主イエス・キリストです。

主イエスの言葉に、サマリアの女性はもがき、必死に抵抗します。そして、11節では、このような質問をぶつけます。11節、女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。ど こからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家も、この井戸から水を飲んだのです。」

女性は、先祖代々飲み続けてきた大切な井戸水、大切な生活用水が否定されたのですから、怒り、抗議をして反論するのは当然です。「井戸はこんなに深いのに、どのようにして水を汲むのですか。あなたは先祖ヤコブよりも偉いのですか」と主イエスを責め続けます。なかなか主イエスの招きに入って来ません。わたしたちも洗礼を受ける前は、同じ心だったと思います。生活を変えることや習慣を変えることは、並大抵ではありません。

そこで、主イエスは、抵抗する女性の心を見抜き、深い憐れみを示して、ついに決定的なメッセージである13節、14節の命の御言葉を与えます。3節、14節、イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

女性がこれまで汲み、飲んできた水は、人間の命を維持するために必要、不可欠なものです。女性は、暑い最中、人目を避けなければならない事情があったにせよ、水を汲みに来なければ命の危険があったのです。主イエスは、女性の精神的にも肉体的にも渇いている姿を見たのです。しかし、主イエスが与える水とは、永遠の命に至る水です。この命は、ギリシャ語でゾーエーと呼ばれ、神と主イエスとの生命的なつながりの言葉です。主イエスと神と共に生きることを意味します。もっと、単刀直入にいいますと、命は、主イエス・キリストそのものです。主イエスの福音を聞いた女性は、心に大きな変化が起きました。14節、女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」あれほど主イエスの招きに反抗していたのに、サマリアの女性は、心と魂が主イエスの福音に触れて、心が躍ったのです。この時点で、女性は福音を完全に理解していたわけではありませんが、主イエスと聖霊に導かれて、女性の心は過去の苦しみから解き放されたのです。

4章16節以降では過去の自分の歩みが明らかにされて、まことの神礼拝へと導かれます。女性の心は、主イエスの御言葉を受入れる準備ができたということです。

 主イエスは、サマリアの女性の魂に配慮しながら、適切な言葉を提供したのです。渇いた心に命の水が与えられて、女性の心は喜びで躍り上がりました。そればかりでなく、もう、人目を避けて水くみに来なくても、主イエスを人々に語る者に変えられたのです。

それでは、今日の説教から、3つのことをお薦めします。。

第一は、教会に新しく見えられた方を、理由を問わず、受け入れてください。サマリアの女性のように、人には生活環境や習慣があり、自分の生き方や考え方は簡単に変えられません。ですから、その方の主張を頭から否定しないで、よく聞いてあげてください。

第二は、その方の心の変化を、よーく観察することです。その方の心が見えてきたら、主イエスの御言葉をかみ砕いて提供してください。「わたしは命のパンです」「わたしは命の水です」というように。

第三は、その方の心が開き始め、御言葉を受入れるようになったら、教会の礼拝に導いてください。もう、過去の自分ではなく、サマリアの女性のように、新しく生まれた者として、真の神を礼拝し、主イエスを信じて洗礼に導かれ道を歩んでください。(分析:中山仰)


豊川修司教師

 

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