聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書11章28-30節
メッセージ:吉田隆 神学校校長
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とは、徳川家康の言葉です。人生とはそのようなものなのだから忍耐することが大切、と教えているのだそうです。このことは確かに真理ですが、最近の「重荷」は少し違うようにも思うのです。
「過労死」という言葉があります。長時間労働など、仕事による過労・ストレスが原因で死ぬことです。これが今や外国語になるほど、この日本の社会は異常な状況にあります。最近では「ブラック」という言葉が使われますが、まさに「闇」「暗黒」に包まれた社会です。いわゆる先進国と呼ばれるような海外の国々では、基本的に残業などありません。しかし、この国では、いくら働いても暮らしていけないという現実がある。そればかりか職場での競争や嫌がらせさえもあり、そうして一度心や体の病気になれば、そこから転がり落ちるという恐れに苛まれる。
他方で、家庭で働く専業主婦(主夫?)もまた、年中無休で働いているにもかかわらず、誰からも評価されることもなく感謝もされない。SNSや子どもがいればママ友に話そうかと思えば、かえって競い合ったり批判の目にさらされたりする。そうして、心身ともに疲れ果ててしまっている方が少なくありません。
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労働環境や就労条件の改善は社会そのものの課題ですが、もっと重要なのは、この社会に生きる人々の物の考え方ではないかと思うのです。どのような価値観をもって生きているか、ということです。
勝ち組・負け組などという言い方が現れて久しくなりますが、要するに、お金を持っているかどうかですべてを判断する考え方だと思います。そうして、人間の価値さえも、生産性があるかないか、役に立つか立たないかで判断する。したがって、病気や障がいを持つ人々は生産性がない、社会にとって無価値な人間だと考える。そんな実にゆがんだ人の心が、今の社会を支配しているように思えてなりません。
今回のコロナにしても、誰もが感染する可能性があるのに、感染した人が謝罪をしなければならない。感染した人は治療をすればいいだけです。それなのに、「ご迷惑をかけました」と謝る。こんなこと外国ではあり得ません。異常な社会です。そして、それを異常とも思わない人が増えているように思えてならないのです。
こうした息の詰まるような社会の中にいて、「もう生きることに疲れた。自分など早く消えてなくなりたい」と感じている人が少なくありません。こうした重荷は、家康が言った重荷とは違う、人間社会が産み出した、背負わなくとも良いはずの重荷ではないでしょうか。
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このような中にあって、教会では、世の中の声、マスコミやネットの情報に聞くのではない。神の言葉である聖書に聞くのです。聖書は、この世界と私たち人間を造られた神がおられると教えます。そして、神がおられる以上、人が本来どのように生きるべきなのか、どのように生きれば社会は幸せになれるのか、それは人を造られた神のみがご存知であるはずです。その神の心、人間が生きるべき道を教えているのが聖書です。
たとえば、聖書の中に「十戒」という有名な神の戒めがあります。実にシンプルな、皆さんも聞いたことがあるようなことが語られています。しかし、その一つ一つが、実に本質的なことを教えている。たとえば、「父と母を敬いなさい」とあります。当たり前なことですが、親子関係が壊れ、家庭が崩壊している現実がいかに多いことか。「殺してはならない」とあります。目に余るほどの殺人が日々繰り返される。人の命も自分の命も実に軽く扱われている。しかし、命を与えた神が「殺すな」と命じていることが大切です。また「姦淫してはならない」。もう芸能人の不倫など当たり前のように報道され、ドラマにもなる。しかし、たといいろいろあっても、神が合わせてくださった夫婦関係を守ることがどんなに大切なことであるか。もう十分でしょう。
こうした単純な戒めは、神が人間にお命じになっているという点が大切です。人が幸せになるためにはこうしなければならないと、人を造られた神ご自身が命じておられることだからです。もし、私たちの社会が、そのとおりに生きていたら、どんなに違った社会になっていたことでしょうか。しかし、それを為し得ない。為し得ないどころか、むしろそれに慣らされてしまい、そのような狂った状態に自分さえも知らず知らずのうちに染まっている。ここに、人間の罪と悲惨があるのです。
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この十戒の中に、もう一つ、不思議な戒めがあります。「安息日を守りなさい」という戒めです。一週間の内、一日だけは休みなさい。何の仕事もしてはならない、という戒めです。神様が、造られた人間に対して「24時間年中無休で働きなさい」と命じるなら分からなくもないですが、そうではなく「休みなさい」と。しかも何の仕事もしてはならない。徹底的に休みなさいという、不思議な戒めです。これは、人を造られた神様だからこそ、分かっておられるのですね。人間と言うのは、働き続けたら壊れてしまう。身も心も。ロボットのように働き続けられるようには造られていないからなのです。
そして、大変興味深いことに、それと同じ事を、今日のイエスのお言葉が命じておられる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。実は、このイエスこそが、神の心を持たれた、神ご自身だからなのですね。この方は、決して「重荷に耐えよ」とはおっしゃらない。「人生そんなものなのだから文句を言うな」とは言われない。「わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」とおっしゃるのです。
このイエスのお言葉の秘密こそ、教会堂の上に立っている十字架です。あの十字架は、私たち人間が負わなければならない重荷、自分で罪を犯して自業自得で負わなければならない重荷を、イエスが肩代わりしてくださったという出来事を表しているからです。私たちが過去に犯した罪も、今犯している罪も、そしてこれから犯すであろう罪の重荷も、驚くべきことに、この方が一切を肩代わりしてくださった。そうして、私たちを解放してくださった、その神の救いを表しているのです。人間がどうしても負って行かねばならない重荷から、この方は解放して下さいました。他の誰の所でもない、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃるのです。
それだけではありません。次に、イエスは、今度は「わたしの軛を負いなさい」とおっしゃる。「軛」というのは、牛などを二頭並べて首にかける道具です。そうして二頭が並んで、一つの仕事をするのです。「わたしの軛を負いなさい」とは、ですから、イエスと私たちが並んで歩く。一緒に人生を送るということです。そうして、私一人に負わせられたはずの重荷を一緒に担ってくださるということです。どうしても負わねばならない罪の重荷、それからイエスは解放してくださいました。しかし、なおこの世を生きていく時に負わせられる、本来負わなくてもよいはずの、人間社会の様々な重荷、その悲しみや痛み、それをイエスが一緒になって担ってくださるというのです。
そして、最後に、イエスは「わたしに学びなさい」とおっしゃる。皆さん、教会とは、学ぶ所でもあるのです。主イエスから、神の言葉から、学ぶ学校です。ここで、私たちは、人間としてのあるべき姿を学びます。どうしたら人に勝てるかではなく、どうすれば人を愛せるか。儲かるための秘訣ではなく、与えることを喜べる秘訣を学ぶ。どのように生産性を上げるかではなく、たとい何もできなくともすべての人には価値がある、人は一人残らず神に愛されているという真理を学ぶのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とのイエスの招きに応えて、教会で、この十字架の下に私たちの重荷を降ろしましょう。そして、再び元気をいただいて、イエスと一緒にくびきを負って、この世知辛い苦労の多い世の中を歩んで行きましょう。マスコミやネットにあふれる人の言葉ではなく、私たちを愛して止まない神の言葉に学んでいきましょう。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」のです。
そのような人生を私たちが歩み続け、やがてこの世の生涯を終える時、私たちは愛する主イエスの許へ、すなわち天国へと迎え入れられ、永遠の安息の中へ、永遠の憩の中へと招かれる。これが、人間の幸いです。これが、神に造られた人間に与えられる究極の幸せなのであります。
神戸神学校校長 吉田隆
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