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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年9月6日「まことの命に生きる」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書16章19-31節

  • メッセージ:中山仰牧師

 ここでの金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とある。当時も今も変わらないかのかも知れないが、「紫の衣」はぜいたくの極みの材料だ。さらに「柔らかい麻布」は、別の訳で「細糸のリンネル」であり下着のことで、そのような服装でもって、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」のだ。

片やラザロはというと、この「金持ちの門前に」いておこぼれに預からなければ生きて行けない状態であった。体には栄養失調と不潔な環境から全身にできものができていた。「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」惨めな生活であった。この「食卓から落ちる物」とは、金持ちたちは食事の折、手についた油を落とすために用いるパンのこと。手やテーブルの汚れを拭き取ったパンだから、どれほど汚れているか分からないがこれでもよいから飢えをしのいでいたことが分かる。さらに「犬もやって来ては、そのできものをなめた」とあり、それは侮辱的な様子だがその犬を追い払うこともできない状態であることが分かる。

やがてこのラザロと金持ち共に死んだ。「この貧しい人ラザロは死んで、天使たちによって宴席に入るアブラハムのすぐそばに連れていかれた。」「金持ちは陰府でさいなまれ」る状態であった。この物語を表面的に見るなかれ。道徳的に劣り、金持ちがゆえにゲヘンナに落ち、貧困なるがゆえにラザロはパラダイスにはいったように取りがちである。しかし、この物語の金持ちは神を忘れ、地上の快楽のみを求め、富のために利己主義者となり、悪人となった。「ラザロが天に国に入ったのは、貧困だけの理由ではなく、彼が義人であったからである。

 この金持ちは生前自分のことしか考えていなかったが、この時に地上にいる自分の兄弟たちを思いやっていることについては感心する。喉が渇き暑くて苦しいので、「水を浸して欲しいとの願いに対して、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」渡れないのだと、拒絶される。では、「わたしの父親の家にラザロと遣わし」て残る5人の兄弟に、「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と頼み込むが、アブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と突きつける。

 ユダヤ人の特に律法学者やファリサイ派の人々は、聖書に精通していたし、ファリサイ派は礼拝から始まって日々の営みにおいて、神中心の生活に励んでいたはずだ。幼い頃から神の言葉である旧約聖書を諳んじていたのだ。だからここで問題になるのは、言葉だけではだめだということである。聞いていても御言葉に耳を傾けることをしない。聖書を無視するようなことはしなかった。しかし言ってみれば、本気で信じていなかったと言わざるをえない。

 律法があれば、それだけで十分な神の言葉である。それは滅びることはないのだから。また掟は神の預言者が語ってきた神の真理である。それは揺らぐことがない。それで十分なはずなのに、それが受け入れられていない。人々は神の言葉に生きていなかったのだ。その通りに生きていたのなら、主イエスは来る必要がなかったのだ。

天の国に入るためには、門前にラザロを囲うだけでなく、自らはその家を出て彼に与えなければならないなどとおっしゃりはしない。ラザロという名前は旧約聖書の中に出てくるへブル語で言うとエレアザル。「神は助ける」という意味。別の言い方をすると、「神の助けなしに生き得ない者」となる。この男は、神の助けによってのみ生きているということ。明らかなことは、金持ちの憐憫によって生きていたのではなく、神の憐れみに依って生きていたということ。私たちは、この金持ちほど財産を持っていないし、このようなぜいたくな生き方をしていないから大丈夫などと思ってはいけない。

問題は別にある。ラザロの名が示す「神の憐れみによってのみ生きる」ということが、自分にも当てはまる真理であるということを忘れることにある。これについては金の力に頼るとどうしても、その真理から離れることは確か。ただ金を持っているかどうかではなく、その点において、「神の憐れみによってのみに生きる」という感謝の気持ちを失うことにおいて、「金持ちが神の国に入る」こいとは難しいのだ。

 ところで、「死者の中からの復活」について、イエス・キリストご自身が果たしておられるのではなかろうか。その甦りの光の中で、この譬えを私たちに「神の憐れみによってのみ生きる」ことができないと心から信じる者が望みをもって読むことができる道を開いてくださった。聖書の言葉がこのような大きな実を結び、力ある言葉になったことを今体験することができることは感謝。通常では死者が甦っても何の役にも立たないとおっしゃった理由は、私たちの心が頑なで、聞き入れないことを知っておられたから。それほどに愚かだった。しかし、主イエスご自身はお甦りになられたことによって、「大きな淵」はもう今はない。大きな淵に厳然と渡された十字架と言う橋が横たわっているから。それゆえ、私たちはもう滅びを恐れる必要はない。

 生前、生涯の中で、困窮を極めた生活を送っていたとしても、このラザロのように、名前が憶えられていることを覚えたい。私たち一人ひとりの名を呼んで下さる主がおられる。それゆえどんなに苦しい時にも、いまわの際においても復活の主の御手に委ねて立ち上がることができるのだ。

田無教会牧師 中山仰

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