聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章35-43節
メッセージ:中山仰牧師
この盲人名前はマルコによる福音書によるとバルティマイです。ナザレのイエスの評判が伝わってきます。その人は口がきけない者まで癒すと聞いて、バルティマイは心を躍らせます。イエスさまがこの町に来られる。しかしこの方をお待ちしているお前はあの方がここに来られても見ることができなくて残念だねと周りの人は言います。するとバルティマイは、いや私はあの人を見ると言います。目が見えなくても、彼はイエスを見ると信じています。やがて主イエスが人々と共にやって来られる足音が聞こえ始めます。早く自分のところに近づいてくださいと心に願います。しかし、なかなか来られません。主イエスはもう永遠に自分のところに来られないのではないかという不安が広がります。もう自分には主イエスを見ることができないのかとさえ思います。その時ついに主イエスが近づいて来られます。彼は叫び始めます。「ダビデの子よ、助けてください。憐れんでください。」人々は大声で黙れと叱ります。自分も黙りたいと思わないわけでもないけれど、もはや自分が叫んでいるのではない、叫ばずにはおられなくなってしまっています。突然周囲が静かになり、人々が走り寄って来て、あの方がお前を呼んでいると言います。人々に手をとって助けられて主イエスの前に連れて行かれ座り込みます。「わたしに何をしてほしいのか」と主はお尋ねになります。男は答えることができません。いったい自分は何を望み、何と言ってよいのかさえ分からなくなってしまっています。自分のこれまで目が開かなかったための苦しみや悲しみが一度に思い出されます。しかし気が付くと自分の両手が伸びています。自分が差し出したのではありません。だが気が付いたら空をつかむように伸びています。そして思わず「主よ見えることです」と発します。すると遂にその目が開かれます。彼は自分が見たい、見たいと思っていたイエスさまを見ます。そのイエスさまを見るまなざしをもって、初めて見る自分の周囲の世界を見えることができるようになったのでした。すると主イエスは言われます「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と。
以上は、ある詩人の言葉です。この詩の中で明らかなことは、この男は、自分の力で救われたことではないということが背景に強く示されています。男はただ自分の苦しみの中にあり続けただけです。そしてそこから、ほかにどうしようもなかったから、主イエスに向かって手を差し伸べただけです。いいえそれすらも、主の招きに従ってなされたのでした。自分からは何を言っていいのか、祈りの言葉すら失った人として描かれています。にもかかわらず、この男の中に信仰があると主イエスはおっしゃっているのです。
しかし話はまた続きます。<それからというものの、この男は主イエスの後について行きました。ほんの数日後、自分もこのイエスという方の死に立ち会わなければならなくなってしまいました。そして十字架の上で主イエスが叫ぶのを聞きます。そのイエスさまの叫びは、天にまで届くかと思われました。そのイエスさまの叫びと共に全世界の苦しみが、天に届くかと思われるほどの絶叫となっていたのでした。この主の叫びはとても大きいものでした。私が目を開いていただいた時の、あの私の叫びよりも比べられないほど大きいものでした。>そこでこの詩は終わっています。
「見える」という言葉は、ある英語の聖書に「再び見える」と訳されています。そのように訳すと、かつて見えていたのに、それが見えなくなったということになります。私たち人間の歩みは、家族間でも夫婦間でも憎み合ったり、何かの拍子で排除したりする恐ろしい罪がはびこっている現状であります。天地創造の初めに人は神の像に似せて良いものとして造られたにもかかわらず、すぐに良きことが見えなくなります。自分を見て、また置かれている社会や周囲を見る時に滅びを予感せずにはおられない状況ではないでしょうか。自分自身を初め世界の営みは、憎しみの支配する歴史でしかないのかと思わざるを得ません。そのような中で、ただ一つの残る道、それは主イエスに向かって十字架に向かって歩み、その主に向かって手を差し伸べることしかありません。人々の罪の歴史の始まりにより、正しいものや真の良い事を見ることができなくなってしまいました。それゆえ、私たちに「見えるまなざしを与えたまえ」と祈らざるを得ません。それが今この盲人が求めていることであり、彼を通して起きていることです。
ヨハネによる福音書の9章には「生まれつきの盲人を癒す」という項目が1章全体を貫いて書かれています。そこの癒された盲人がイエスさまから「あなたは人の子を信じるか」と問われ、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と名乗ってくださり、彼が「主よ、信じます」とひざまずくと、主イエスは、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言われました。まさに私たちはこの物語の盲人に対して、自分の心の盲目性に気が付いておらず、自分のこととして読むことができるのではないでしょうか。 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)という主イエスの言葉を重く受け止めたいものです。
共感福音書の中で、マルコによる福音書のみがこの盲人の名を記している点を注目しましょう。主が葬られることを予期して、主に高価な油注ぎをした女性でさえその名前が載せられていません。にも拘わらずこの盲人バルティマイの名が残っていることは驚きです。ということは、彼自身がその後、主の御名をいかに証しし続けたかということの裏付けにもなります。それは彼を称賛するためではなく、彼に現れた神の御業が賛美されるためです。また彼の心の眼が開かれたように、私たちの閉ざされまた曇っている眼を常に主に在って開いていただき、輝かせていかねばならないかを教えられることとなります。価値観をこの世に据えることではなく、天上に目を向けて新しい年を送って行くときに、主のみ旨に少しでも従い行うことができるのだと思います。田無教会の今年の目標の「福音宣教と教会形成」を目指して進みましょう。
田無教会牧師 中山仰
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