聖書箇所:新約聖書 レビ記23章13-35節
メッセージ:中山仰牧師
本日は要望にお応えして、第一回目の伝道礼拝です。コロナウイルス禍にあって、職業を無くす人、減給になる人、廃業せざるを得ない状況があります。それらをどのように考え、また私たちに何ができるのかを考えましょう。
聖書には、助け合いの精神があります。本日のレビ記は、愛の神のみ民に対する配慮を感じる個所です。特に 23:22畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。と言われています。この戒めは既に19章の9-10節で言われていたことの再確認です。その良き習慣は、ルツ記で、夫と二人の息子を亡くしたナオミがモアブの地から嫁のルツと共に帰って来た時に、命をつなぐために畑の落穂拾いをする場面が甦ってきます。
使徒の時代に、信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。使徒2:43にあります。このような教会初期の助け合い精神は、原始共産主義形態と言われています。
そのようなキリスト教の精神は様々な分野において広がっています。たとえば、保険制度の開始、医療関係については、ナイチンゲールがクリミヤ戦争の時に敵も味方もなく戦傷者たちを介護したことが始まりの赤十字の設立が上げられます。教育関係において、津田塾、大妻女子大、東京女子大、名古屋の金城学園やカトリック系の女子大があげられます。「あなたがたは、地の塩世の光である」という主の御言葉から知恵が与えられています。
さて、私たちの改革派教会においては、改革派教会の創立宣言を見るといたずらに分派を一つ作るのではありません。太平洋戦争時に教会がきちんと抵抗できていなかった点を深く反省して、二度とそのような轍を踏まないために、信仰告白をもって「地の塩、世の光」の役目を果たしていくために、ウエストミンスター信仰規準を柱にした教会を打ち立てることを目標にして出発しました。創立30周年には、靖国法案を阻止するための神学的裏づけとして「教会と国家に関する宣言」を採択しました。
教会が聖書の神の御言葉に照らされる時、上に立つ権威に従い、平和裡に物事を運ぶと同時に、正しく礼拝を守ることができない状況に陥ることがあるならば、その時には戦わねばなりません。ですから、政治的問題を避けることはできませんが、政党を作って政治に参加するという意味ではありません。私たちの戦いは、暴力的でなく平和の戦いです。
ドイツでナチス・ヒットラーが台頭したときにそれに反対した地下組織がありました。その時、ボンヘッファー牧師はヒットラーの暗殺計画を試みる団体に入って捕らえられ敗戦のわずか2か月前に処刑されています。
『主のよき力に守られて』(村椿嘉信訳)/Von Guten Maechten、Dボンヘッファー作
主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、不思議にも守られ、慰められて、私はここでの日々を君たちと共に生き、君たちと共に新年を迎えようとしています。
過ぎ去ろうとしている時は、私たちの心をなおも悩まし、悪夢のような日々の重荷は私たちをなおも圧し続けています。あぁ、主よどうかこのおびえおののく魂に、あなたが備えている救いを与えてください。あなたが、もし私たちに苦い杯を、苦汁にあふれる杯をなみなみとついで差し出されるなら、私たちはそれを恐れず感謝して、いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。しかし、もし、あなたが私たちにもう一度喜びを、この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、どうか今こそ、暖かく、明るく燃やしてください。そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを私たちは知っています。・・・神は必ず、私たちと共にいるでしょう。
この詩は、フィアンセに送られたこのような手紙に同封されていたそうです。「私が、あなたにクリスマスにこの手紙が書くことができ、あなたを通じて両親や兄弟たちに挨拶を送り感謝できるのを喜んでいます・・・(中略)・・・私の周りが静かになればなるほど、あなた方との結びつきがより深まることを実感できるのです。すでに、確かに神の御国の中にある。そのような彼の信仰が生み出した言葉なのかもしれません。どのような困難の中にあっても、その人を平安で包み込む、圧倒的な神の力を感じます。
コロナ対策としては、緊急事態宣言で企業やお店に自粛させるならば完全な休業補償をすることです。前回のスペイン風邪の流行のように3年は終息しないということですから、3年分の予算の内の最低限のものを残して全部を補償に充てたらよいはずです。コロナが去ってから景気回復のために働けば良いのです。ちなみにこの発想は、創世記41章のヨセフ物語でのファラオの夢を解き明かすところからのヒントです。7年の大豊作の後に7年の大飢饉が来るのに対処することを考えるなら、逆バージョンで3年のコロナの時の経済停滞は後の3年なりで挽回すればよいのだと思います。
または、ある医療専門家に言わせると2週間の間国民全員が一人にも遭わないとするならば完全にコロナは終息するということですから、2週間分の経済の丸々補償なら金額的にもっと実行しやすい額なのではないでしょうか。具体的な対策が必要だと思います。
コロナ禍では、お金も社会の地位や名誉が役に立ちません。主イエスは「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:25-34)と言われます。この御言葉に立って、今一度基本に帰って考え、実行することでしょう。
田無教会牧師 中山仰
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