検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年1月31日「キリストにおいて一つ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章11-22節

  • メッセージ:中山仰牧師

 日本の大きな建造物には大黒柱と呼ばれる中心なる柱が真ん中にあります。ユダヤでは神殿のような建物を建てるときは、石造りですから、4隅に大きなしっかりした堅い石を据えます。建物を建てる時の規準になるのは、その隅の頭石です。ちょうどお城の石垣を築く際に、嚙合わせる大事な個所に置かれるような石ですので、親石とも呼ばれます。または石でもって橋をつくる時に、周りから積み重ねて行って、最後に重しのように置かれた石で完成するために用いられると考えるとよいでしょう。石造りの構造については詳しくは分かりませんが、屋根の部分にも基礎の土台にも基盤となる石が必要のようです。それらがキリストであるとパウロは言います。そう考えるとキリスト・イエスは、「2つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊す」ということや私たちが「使徒や預言者という土台の上に建てられる」「かなめ石はキリストご自身」であるという意味がよく分かって来るのではないでしょうか。パウロは少し前の1章10節のところで「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」と言っています。すべての土台であるキリストこそ天においても地においてもまさに頭なのですから。

 そのようにして土台の頭石やかなめ石はキリストでなければならないのですが、その他の部分は材質が違ってもたくさんの石が必要なのです。それらが組み合わさって一つの家となります。家とは人の住むところですが、元の言葉には神の家という意味もあります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)とパウロはコリントの信徒への手紙一3章で繰り返し言っています。そのために、神のために力を合わせて働くことが目的であり、私たちはそのために一つに合わせられているからです。

 家はギリシャ語でオイコスと言います。現代の神学用語に超教派の集会や働きを「エキュメニカル」といいますが、その語はもともと「オイコメニュカル」と関係しています。家計をやりくりすることをオイコノミー、経済といいます。そこから対立していた者同士が組み合わされて共に建てられて一つの家となるのです。

 一つの家ならまだしも、パウロは神の家になる、つまり神殿になると言い換えています。つまりこの場合の一つの家とは、どこか遠くにあるの漠然とした存在ではないからです。教会があなたがた異邦人とユダヤ人が共に建てられ、家になり、霊の働きによって、すなわちキリストによって、神殿、神の住まいとなるというのです。私たちはよもや自分たちが神殿などとは思わないでしょう。しかし神の目から見るならば間違いなく神の家、神殿なのだと言うのです。それは、人々から見捨てられ十字架にかけられ、神に復活させられた主イエスは、新しい神殿建設のための「かなめ石」となってくださったからなのです。そのイエスさまにより頼んで組み合わされるならば、一つの神殿とされるのです。一つ一つのがたがたした不安定な切り石こそ私たちなのですが、それらが用いられるのです。この大切な主張については、使徒ペトロも「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Ⅰペトロ2:5)と言っています。

 家ができるとそこに住むのが家族です。神の家族は、神の家に一緒に住みます。神の家として、一員として住むというのですから、これは当時も今でも驚くべきことなのです。本来対立している者たちが、キリストの中で、キリストによって一緒に住むことができるのです。真の平和に生きることができるというのです。これが本当に分かれば、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の対立はもちろんなくなります。


多くの欠けのある者たちが一つに集められて教会は成り立っています。日本の教会の場合まだ途上ですので、立て上げるためには多くの方々を必要としています。当然自分を含めて、私たちは不完全なとげとげしてきれいに磨かれていない原石に近い材料です。どうしたら完全でなくてもいいから、良い結合ができるのでしょうか。それぞれ個性豊かで、ユニークで、時には灰汁の強い性格を持っているので、なかなか結合しづらい原石のようなものです。素材も何もかも全く違うものがどうして共に組み合わされることができるのでしょうか。個人個人の性格を変えないようなやり方で、自由な結合は可能なのでしょうか。木でも表面が凸凹であったり反ったりしていたら決して結合しません。まして石同士なのです。角と角、接地面が平でないと無理なのです。互いに補い合うことなどできません。まして人間の場合には、途方もない自我やエゴ、罪の残滓が様々に絡み合って複雑に入り組んでいます。

新約聖書において組み合わせられる本来の姿は、物と物とは違って人と人の愛に満ちた活動であると言い切っています。テサロニケの信徒への手紙一5章にそう書かれています。< 9神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 10主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。 11ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 全くそうではありません。つまり私たちが木や石以上に組み立てにくく、合成できないことをご存知あるからこそ、イエスさまは十字架で血を流してくださったのです。私たちの罪を全くご存知ですから、その血によって凸凹な面を完全に埋めてくださり、曲がった部分に入り込んで、だいたいではなく、完全に結びつくようにしてくださったのです。その方法以外になかったのです。だから、私たちは主の十字架の血によって生かされていると確信する者は共々に助け合い、補いあって主の教会を立て上げることに喜んで参加するのです。

 この「キリストにおいて一つ」となる教会に、私たちは集められています。今年一年を標語聖句であるエフェソの信徒への手紙4章21,22節の御言葉を柱に、教会生活に励みましょう。


田無教会牧師 中山仰

57回の閲覧

最新記事

すべて表示

2021年6月13日「心から献げる喜び」主日礼拝

聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章45-21章4節 メッセージ:中山仰牧師 本当に困っているやもめたちに対して心からなる同情を示さない責任者は、赦されるでしょうか。人前で長い衣をまとって歩き回りたがることや宴会では上席に座ることを好んで行っていました。そしてやもめの家を食い物にして見せかけの長い祈りをすると列挙されています。人間は上に立つほど人前での身分や権威をひけらかすことをしてしまう