聖書箇所:創世記3章1-13節
創世記3章は「神のエデンの園」に身を置いた一組の男女が、神の命令に反したため惨めな状況に陥って行く話です。そこから互いに受け入れ合っていた男女の至福の日々が、ここでは暗転します。人間とは何ものなのでしょうか。ここには、悲しくも惨めな状態に堕ちていく人間の有様がみごとな筆致で叙述されています。
物語は、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」という文章で始まります。「最も賢いのは蛇」という時の賢いと訳された言葉はアルームといいます。すぐ前の2章の最後に出てくる「裸」と言う言葉はアロームで語呂合わせになっています。アルームは賢いとか思慮深さを意味しますが、同時に「小賢しさ」という意味もあります。
この語は神と人間のために用いる時には「賢さ」となり、自分のためにだけ用いる時には「小賢しさ」となる二面性をもっているのです。
蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と否定形で質問して、園の中央に生えている木に女の関心を向けさせます。女は蛇に「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」と答えます。この問答によって、女は中央の木の実をめぐる問題に引き込まれて行きます。
この3節の言葉は、2章17節の神の命令を反映するものですが、比べてみるとかなり違いがあることに気が付きます。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と主は命じています。それに対して、女は「中央の木の実」と述べて、禁止命令を少し拡張しています。第二に女は、「触れてはならない」と命令されていないことを付け加えて、尾ひれを付けています。そして第三に主なる神が「食べたらその日に必ず死ぬ」と断言しているにも関わらず、「死んではいけないため」と表現を和らげています。すると蛇は「決して死ぬことはない。 5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と女に二の矢を放ちます。「決して死ぬことはない」と安心させておいて、一切を主のようになることへと促します。女は善悪の知識の木の実に目を奪われていきます。
「目が開ける」とは、普通の視力では見えない神秘をも見抜く、超自然的な視力と眼光が与えられるということです。その力を与える魔力がこの木にはあると、この魔術的迷信を信じさせること、それが蛇のささやきの狙いです。
ここは神々しい超自然的な力や神に似た力を持つ者になれるという誘いです。このような誘いこそ魔術的な迷信であり低劣な新興宗教がいつも誘う手段です。それらは人間が飛びつきやすく気軽に入れる宗教なのです。神の御言葉は疑われ否定され、人は神にとって代わり、何もかも知っていると言わぬばかりに王座に着いているではありませんか。このような時代が、第二のアダムであるイエス・キリストにつまずくのも不思議ではありません。キリストの生き方はあまりにも世とかけ離れていたからです。
神のかたちに似せて創造された人間は、それを光栄に思い神を神として人間の本分を生きるときに、神の園で屈託のない豊かな自由をもって生きることができます。ところが御言葉に聴かない時に大きな間違いを犯します。自分をすべての中心と考え、まるで自分を神かのように思う時何が起きるでしょうか。自分が裸であることを認識する目が開かれると聖書記者は記します。二人は裸である相手を見て、自分もまた裸・アロームであることを知ったのです。イチジクの葉で腰を覆ったというのですから、自分の裸にうっとりしたのではありません。むしろ覆い隠さないではいられない自らの恥を感じたということでしょう。
男と女はイチジクの葉っぱで腰帯を造り、互いに互いを隠し合うことになります。罪の結果は、のびやかに裸で自由に暮らしていた彼らでしたが、互いに互いを隠し合い、互いを閉ざすというように変化します。夫婦の間に亀裂が走ります。彼らから自由は失われ、不自由が彼らの生活を覆います。隠し合わなければならないものを持つということは窮屈なものです。それが一体となった夫婦の間でしたら、どんなにか気まずいでしょうか。男と女は息が詰まるような暮らしに堕ちて行きます。
しかし彼らは神の断言にも関わらず、死にませんでした。それでは、蛇が言う通りなのでしょうか。それとも神の断言は、人間が賢くなるのを恐れた神の威嚇に過ぎなかったのでしょうか。彼らが神との関係を失ったときに、彼らに死が訪れるとみることです。
なぜなら人間の命は神と人との関係性にあるとするのが聖書の主張するところだからです。この神との関係が断絶したり喪失するとき、人間は生ける屍になるからです。ですからアダムとエバは肉体は生きていても、すでに死んでいるのです。
禁断の木の実は、木の実が食料として良いか悪いかという問題ではなく、その決め手は結局神の御言葉なのです。女が食べるに「おいしそうで、目を引き付けられた」時点で、神の御言葉も御心も忘れていた証拠です。人は誰でも目の前を見る時、見かけや外見だけに基づいて判断する科学者です。現代人は、神の御言葉などを勘定に入れないでしょう。食べ物ほど、人間の本能的な判断で取捨選択されるものはありません。人は食べ物のためには、神に背くことをも厭いません。「食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。」(1テモテ4:3-4)と使徒パウロも記します。
また視覚からの誘惑で、女が見ると禁断の木の実は「いかにもおいしそうで、目を引き付け」たとあります。この木を見る時に「美しく」感じるだけでなく、神とその業に対して、御言葉をめい想して神の所有権を再確認すべきだったのです。私たちは良い作品を自分のものにしたいという欲望が生れてきます。「美しい」と訳されている言葉は、元々「身をかがめる・傾倒する」という意味があるのは意味深です。物を取るときには身をかがめざるを得ません。その行為はたびたび、食欲や貪欲や汚い執念を表すのに使われます。女は「目を引きつけられ、美しい」と感じて、詠嘆し、身を伸ばして取ろうとする強欲へ傾斜して行ったのです。
さらに女の見たところ、禁断の木は「賢くなるのに唆していた(好ましい)」とあります。「唆していた」とは何と暗示的な訳でしょう。学問や芸術に関してこつこつ努力して積み上げる人たちがいる一方で、世渡りがうまく、処世術にたけている人たちがいます。地道に積み上げた人の研究や成果を横取りして一挙に手に入れる輩がおります。女は夫を助けてコツコツと園の守番として働くより、直情的に一挙にやすやすと手柄を入れる方法でこの木に飛びついたのでした。人が定められた限度を超えて冒険し、天使や神々の仲間入りをしようとする高ぶりでもあります。
第二のアダムである主イエス・キリストも悪魔に誘われました。世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もしわたしを拝むなら、これをみな与えよう」、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える」(マタイ4:4-11)という詩編を用いての誘惑です。主は、この魔術的で一挙に手に入れられる方法に飛びつきませんでした。「あなたの神である主を試してはならない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と悪魔の誘惑を撃退されました。
私たちの日常生活においても、様々な誘惑や試練があります。それらの全ての誘惑に弱い私たちはどうしたら、それらから守られるのでしょうか。それは、ただお一人、肉の欲・目の欲・人を出し抜く誇りを捨てて、あらゆる悪魔の誘惑を退けて、神のみ旨を行ってくださった御子イエス・キリストに倣うことです。この方を信じ、この方の子孫になることによってだけ、私たちは新しい人類の一人として救われます。この方こそ、「わたしを食べよ」と言って下さる永遠の命のパンです。このお方こそ、すべての誉と栄とがふさわしい方です。この方を信じることこそ、神の知恵、まことの賢さです。
多くの誘惑から逃れ、主にあって新しい人として永遠に生きましょう。
「なぜなら、すべて世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も過ぎて行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ一2:15-17)
この御言葉に立って、誘惑に遭わせないようにと主の祈りを祈りつつ、主と共に信仰に励むことでしか勝利はありません。
田無教会牧師 中山仰牧師
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