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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年10月31日「信仰の到達点」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録27章21-26節

 

 パウロの最後の旅は、最初から向かい風を受け、「ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた(20節)、という状態に追い詰められていました。本日の御言葉は、もはや死を待つばかりとなった嵐の船の中で、それでも尚、主イエスを信頼し御言葉に立ったパウロの姿が描かれています。

 その時この船にいた人々の姿が「人々は長い間、食事をとっていなかった(21節)」、とこのように記録されています。これが、死と隣り合わせになった船の中の人々の姿です。

しかし、パウロは、「船は失うが、だれ一人として命を失う者はない(22節)」と励まします。

 その根拠は、「わたしが仕え、礼拝している神からの天使(23節)」からのメッセージにありました。

 ここで大切なのは、この嵐の中でも、パウロは、神に仕え、礼拝を続けていたという事実です。パウロは、この船の全員が救われるように祈り続けていたのです。「船は失うが、だれ一人として命を失う者はない」、実にこれは、この船の中で、パウロが礼拝し、祈りの中で与えられた主なる神様の回答なのです。一人のキリスト者として、周りの人のために祈る大切さがここで示されているわけです。

 私たちはこのことに非常に鈍感ではないでしょうか。私たちの周りで、救いも平和も実現しないのは、私たちの祈りが足りないからでもあるのです。祈りは、この世に対する私たちの義務であり、責任でもあるのです。

 改革派教会では、毎年10月の最後の主の日は、宗教改革を覚えて礼拝をおささげしている教会が多く見られます。この宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターは次のように言いました。

 「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。 忙しいから祈りが足りなくなるのではないのです。信仰の世界では逆です。

むしろ忙しいと祈りが多くなる、それが、信仰者であるべきです。

 パウロは、死と隣り合わせになった船の中で尚、全員のためにいつもより余分に祈っていたのでしょう。それは276人分の祈り(27章37節参照)です。

 パウロは最後に言います。「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。(25節)

 ここで「元気を出しなさい」、とパウロは船内を励まします。この言葉は、もともと「上機嫌である」「喜んでいる」という意味の言葉です。死と隣り合わせの船内で、上機嫌でいられる者がありましょうか。喜んでいる者がありましょうか。そんな馬鹿な話はありません。しかし、その馬鹿な話をひっくり返してしまうのが信仰なのです。「わたしは神を信じています」、これなのです。これが馬鹿な話を見事にひっくり返しているのです。「わたしは神を信じています」、この信仰のゆえに、荒れ狂う暗闇の海の中で、上機嫌でいることが起こりうるのです。信仰は、現実をひっくり返す力さえもつのです。

 本日は「信仰の到達点」という説教題が与えられました。この御言葉にパウロの信仰の到達点が散りばめられているからです。

 前の段落の20節で幾日もの間、太陽も星も見えず」、とこの船を取り囲む世界が暗闇であったことが記録されています。パウロは、その暗闇の中で光を見ていたのです。しかし、その場合、実は光を見ることだけでは終わらないのです。自らが光となるのです。そしてこれがパウロの信仰の到達点です。

 死の陰にうずくまり、ただ死を待つばかりの船内で、パウロはどのように見えていたでしょうか。輝いていたのではありませんか。信仰は、信仰者を輝かす力なのです。

そしてこのパウロの信仰のありようを示す大切な表現が本日の御言葉にあるのです。

 それが「わたしが仕え、礼拝している神(23節)という表現です。実は、これは意訳でありまして、ギリシャ語の本文では少しニュアンスが違います。原文で、この中には「私はある」或いは「私はいる」、と訳せる、ギリシャ語の「エゴー・エイミー(ἐγώ εἰμι)」という大切な言葉が含まれているのです。これを英語で言いますと、「I am」です。訳しにくいのですが、あえて素直に訳しますと「私が礼拝していることによって、そこに私があるところの神」という表現です。パウロの存在そのものが、神にあり、神礼拝にある、という意味です。すなわち、神を礼拝することがパウロのアイデンティティーである、これなのです。

 パウロの信仰の到達点、それは荒れ狂う暗闇の海の中で輝きました。しかし、その土台にあったのは、普通の神礼拝であったのです。パウロ自身の信仰が強いとか弱いとか、そのような話ではないのです。私たちは信仰の到達点などと言われますと、自信がなくなり、自らの信仰の弱さを恥じる者であります。しかし、実は、私たちの神礼拝そのものに、私たちの信仰の到達点はあるのです。

 今日神様の前で、喜んで賛美歌を歌う方がおられる。そこに信仰の到達点はあります。信仰の到達点で神を賛美しているはずだからです。御言葉を語る者、そして聞く者、奏楽をする者、受け付けや献金当番をする者、それは、自らの信仰の到達点で、キリストに仕えているはずです。今日ここには集えずにインターネット礼拝をおささげしておられる方、病の床で主を仰ぐ方、そこにお一人お一人の信仰の到達点があります。今私たちは輝いているのです。礼拝の中で。

 信仰の到達点は、神礼拝において最も鮮やかにその姿を現すのです。

 そして、それを主なる神様は喜んで受けいれてくださるのです。私たちが礼拝をささげる、それは、この神の喜びと祝福に与ることです。その時、私たちは、輝く者とされるのではないでしょうか。

 私たち自身が輝くのではなく、キリストが光を与えてくださるからです。これが礼拝です。

 

 宗教改革者マルティン・ルターは、宗教改革の口火を切った後、ヴォルムスの国会で、自らの主張を撤回するよう迫られました。しかし、彼は「我ここに立つ、主よ救い給え」とその信仰を曲げませんでした。この「我ここに立つ」これは、英語ですと「Here I am」に当たります。

 パウロもルターも神に対する信仰が「I am」なのです。そこに彼らはあったのです。

 私の状況が今どうであるか、それは大した問題ではない。嵐の中にあろうが、ヴォルムスの国会に立たされようが、或いは今キリスト教信仰の四面楚歌のこの国に遣わされようが。

 大切なのはその弱い私が、キリストにあるかないか、それだけです。弱い者は、最後まで弱いのです。その弱い者がキリストに「I am」であること、キリストに私があることが大切なのです。私たちの改革派教会のアイデンティティーであります御言葉によって改革され続ける、その現実的な意味、それは私がキリストにあるかないかが常に問われることであります。

 私たちは、今日キリストにある者として、礼拝から遣わされます。遣わされた場所には、真の幸を求めつつ、むなしきものに惹かれていく大切な人がおります、嵐に悩む友がおります。その暗き世に、キリストの光を輝かせる者とされたいと願います。

 「栄光は主にあれ、とうときめぐみ、さずかるわれらは、ひたすらしたがわん。この世に御神を、かがやきあらわすひかりと、われらをなさしめたまえや。(讃美歌21378番4節)」。


高島平教会牧師 新井主一教師

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