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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年11月21日「終わり佳ければすべて良し」主日礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書21章28-32節

 

「終わり佳ければすべて良し」という人生は、実にキリスト者たちの確信であり喜びでもあります。それをご一緒に考えてみましょう。

 このたとえ話の「父」とは神のことであり、「子」はユダヤ人のことです。「ぶどう園」は旧約聖書以来神の国・教会のことです。ここで二人の子の一方は気軽に教会の御用に奉仕しましょうと答えながら実行しなかったのに対して、他方は、初めは傲慢な態度で背を向けたものの、悔い改めて、神の道に立ち帰ったのでした。

主イエスのこの譬え話の狙いは、31節「バプテスマのヨハネが神の国に入る義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じませんでしたね」で明らかになります。「ところが徴税人や娼婦は彼を信じました。あなたがたもそれを見たのに、後になっても心を入れ替えて彼を信じようとしませんでした」。すなわち「兄の方」とは、「徴税人や娼婦」のことです。彼らは、神の子ユダヤ民族として生まれながら、神の国御用に尽くすよりも、異邦人のローマや皇帝や領主ヘロデのために税を取り立て、請け負うことを選んだり、時には不道徳な不倫を楽しんだりしていました。しかしヨハネが来てからは悔い改め、ヨハネの教えてくれた救い主イエスに着き従うようになりました。

それに反して、ユダヤ最高議会に属する律法学者やファリサイ人らは、初めは「お父さん承知しました」と殊勝な態度を見せて、神の宮を管理したのです。しかし前段の「いちじくの木のたとえ」のように、葉っぱだけ茂らせて実を結ぶことをしないような見せかけの信仰行為に終始していました。人々からの賞賛をもとめたり、自分たちの地位を見せびらかしたり、いけにえや供え物ばかりにうつつを抜かして正しい礼拝や信仰の実を結びませんでした。後から心を変えた兄のようになりませんでした。

彼らの心にはイエスさまはメシアではない」と決めつけた途端、どんなに主イエスが力ある業をしたり、神しかできない罪を赦す行為を見ても決して心を変えることはない頑固者でした。多くの人が心から従うことを見ながらも、自分の考えだけに固執していることは、初めは不信仰で出発しても途中で悔い改める人と比べるとはるかに悪質です。しかしそのような彼らに対しても主はこのような問答を通して常に立ち帰ることができるように招いてくださっています。今心を変えて方向転換するならば、「父の望みどおりにした」人生であると主はすべてを赦してくださるのです。

 その主の招きの態度は、主イエスが十字架につけられた時も続けられました。主と共に左右に十字架につけられた強盗のひとりは、死の瞬間まで自分の考えや概念を変えることなく、主をののしったまま死にました。しかしもう一人の人物は、その仲間をたしなめ、主の憐れみを乞い、死の直前に一生かかって持ち続けた思想、信条、概念をぎりぎりのところで食い止めたのです。その時、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と言われたではありませんか。

 悔い改めに、決して遅すぎるということはありません。どうして神のかたちに似せて造られた人間が滅びていいのでしょうか。一人でも滅びることを主はどんな時にも願われられません。主のお心には「今では遅すぎる」ということは絶対にありません。

 それと全く対照的な存在が、主に逆らう悪魔です。主イエスはある時、悪魔について次のように言われました。ヨハネ8:44「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」  キリスト・イエスは救いの約束の言葉の実現です。それは初めに造られた神のかたちに似せたすばらしいところから初めの人アダムが堕落したために、私たちは神の元へと帰ることができなくなりました。そこで第二のアダムと言われる御子イエスがすべてを回復せざるを得ませんでした。

テサロニケの信徒への手紙二2章13節には、私たちは「救われるべき者の初穂」と言われている個所があります。「初穂」とは、あらゆる時間の先に立つことをいう言葉です。単に初代の教会の人々だけでなく、私たちがどんなに後になって救われても、途中どんなに悪に傾いていても、救われた魂に対して「初穂」と呼んでくださいます。

またヘブライ人への手紙9章28節に、キリストの言葉に聞き従う者の救いの根拠が約束されています。罪の身代わりのためにこの世に来られたお方は、もう一度終わりの時に来られて、待望しているキリスト者たちのために現れてくださるという恵みの約束がここに宣べられています。

 キリスト者の人生はまさに倒れているようでも立っており、死んでいるようでも生きているのです。誰でも主の栄光を現わす業ができます。まして元気で力の余裕のある者たちはさらに、それらを用いて主の御栄のために働くことができるのではありませんか。

 私たちの人生においても、それぞれいろいろな試練や環境により左右されることもあるかもしれません。しかし、私たちの生涯が順風満帆であろうと困難の連続であろうと、主にある者は、罪赦され永遠の命の確実な約束があります。

 それこそ聖なる神の前に出ることのできない私たち罪人が、ただ憐れみによりキリストの救いに預かったからです。まさに「後の者が先になる」ように「終わり佳ければすべてよし」なのではないでしょうか。

田無教会 中山仰引退教師

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