聖書箇所:新約聖書 ローマの信徒への手紙 3章21-26節
メッセージ:中山仰牧師
神の義とは何でしょうか。22節に、すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。とあります。神の義は分け隔てなくすべての人に公平に与えられるというものです。それではどのようにしたら神に義を得られるのでしょうか。
1.23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 私たちは 「みな(神の御前に)罪人である」。という事実に気が付くことが第一です。
まず初めに、本来私たちは神の御前に罪人であり、真に聖なる方の前に立つことはできないということを覚えておきましょう。この自覚がないと、聖書や説教であなたは罪人であると言われても、ピンと来ないし耳障りに聞こえるかもしれません。私たちはとかく、特別に良いことをしていないかもしれないけれど、逮捕されて牢屋に入れられるような悪いことはしていないし、人に迷惑をかけるようなこともしないで真面目に生きていると思っています。でも真の神がおられるなら、多くの神々はいないはずです。またどの神さまが正しいか唯一の神であるかはどうしたら分かるのでしょうか。それは聖書を見る以外に分からないでしょう。
日本人も比較的真面目な人が「良いことをしない」と洗礼を受けられないと思って一歩進めない人がいます。しがらみを捨てて、どこかで飛び込む以外にないのですが難しいようです。私たちは経験したことがないものへ委ねることは恐怖でしかないようです。多くの日本人は昔から親しんでいる仏教や神道の方が遥かに難しいと思うのですが、そちらに足をかけたままとなることが多いのではないでしょうか。
2.命の犠牲
父なる神は、知らないまま神の前に正しいとされずに神の国へ行けないことがないように、特別なご計画の下に救いを与えてくださいました。それが神のお遣わしくださった神の独り子イエスさまです。
それが24節で言われています。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。と。私たちに無償で救いが与えられるのですが、神にとっては大きな犠牲を払っています。神の御子イエス・キリストの命が代償となっているからです。
3.続く25節で、神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。とあります。知らずに犯した罪は赦されます。まったくおとがめなしという約束です。代表例が使徒パウロです。彼は自らがキリスト教会を迫害し、キリスト者たちを捉える働きをしていましたが、それでも知らなかった時の過ちは赦されたのです。それがⅠテモテ1:13、16に書かれています。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」とあるように、知らない時にしたことに対する神の憐れみの深さ、忍耐深さが明瞭に記されています。
4. 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ただし、神さまは、悪いことを放っておかれるお方ではありません。悪を必ず裁かれるお方です。ですから私たちの罪をいい加減にして放っておかれる方ではないのです。それでは誰が正しい者と認められ、救われるのでしょうか。神に逆らい、自由に生きていた私たちは全く神の正しさから遠いところで生きており、また事実、妬み、不義理、悪口、人の失敗を望む心、恨み、自分を責める者の不幸を望みさえするという多くの罪を重ねて来ています。そのような私たちが救われるためにはどうしたらよいのでしょうか。その手段は私自身には全くありません。どんなに善行を積んでも自分の心を納得させ、自らの満足のためにする。または自分に好きな人にだけ良くしたり、自分に良いことが跳ね返ってくるような形でしか善行をするのが私たちです。
憐れみ深い父なる神は私たちの弱さを知っておられます。そこで、何と神の子イエスさまをこの世にお遣わしになり、この方を神の御子と信じるだけで、ただそれだけですべてを赦すという信じられない方法を採ってくださったのです。その神の愛と、その実行のために粛々と十字架に引かれていく犠牲の子羊としてのイエスさまに感謝して着いていくことで全く無実と判定してくださるのです。この神の救いを信じる者は間違いなく義とされるのです。ですから御子イエスの死を自分の身代わりと信じる者が義とされるのです。ここに神の義と愛があります。十字架はクロスしていますが、まさに神の愛と義の交わるところです。
5.さらに、この救いに差別はまったくないということを確認しましょう。ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、選民であろうと異邦人であろうと男も女も、出自も、貴賤の差も全く関係ないのです。22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。と聖書は約束してくださいます。この神の御手の中にご自身を委ねませんか。
小坂忠作詞作曲の『御手の中に』という賛美がとても印象的です。今日のお話しと重ね合わせるようにして、神の愛とイエス・キリストの恵みに委ねて感謝の内に人生を導かれませんか。
「御手の中で」小坂忠作詞作曲
「①御手の中ですべては変わる感謝に わがゆく道を導きたまえ あなたの御手の中で
②御手の中ですべては変わる賛美に わがゆく道に表わしたまえ あなたの御手の中で
③御手の中ですべては変わる感謝に わがゆく道を導きたまえ あなたの御手の中で」
田無教会牧師 中山仰
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