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日本キリスト改革派 田無教会

2021年5月2日「御子イエスによる救い」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 3章9-19節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 ここの譬え話のぶどう園の主は神さまのことです。ぶどう園に集められた農夫とは、私たちのことです。ただしここでの農夫は、当面の相手であるユダヤの指導者の律法学たちや祭司長たちと言われる人々です。話の終わりに、彼らがイエスさまから「自分たちに当てつけ」たと気づいているのですから。イスラエルにとって「ぶどう」ないし「ぶどう園」は神さまの恵みとの関係で、古い時代から特別に結び付けられていますから、この話はすぐにピント来たことでしょう。

 農園主が農夫に畑を管理させることはしばしばあったようです。何らかの原因で、農園主が亡くなったり、帰りつかない場合には、そこで働いている農夫たちの所有となったようです。雇われた農夫たちは彼らなりに一所懸命働いたことでしょう。いろいろな工夫をして、何とか収穫を少しでも豊かにしようと何年も努力を惜しまなかったはずです。そんなある時、農園主が遠い所へ旅立ったのでした。残されて管理を任された彼らは、主人のために農園を守っていたのです。

主人は使いをやって収穫を要求しました。収穫の全部をよこせとは言っていません。農園主の受ける権利としての取り分を要求しただけです。ところが農夫たちは遣わされた僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返しました。続けて後二人を送り込んだのですが、今度も何も持たされないで傷さえ負わされて追い返されてしまいました。自分の息子なら敬ってくれるだろうと遣わしますが、この跡取りを殺せば自分たちのものになると勘違いして殺してしまいます。

主なる神は、神の民イスラエルを顧みて彼らの罪を指摘し、悔い改めるようにと旧約聖書の時代から度々預言者たちをお遣わしになりました。しかし神の使いを時には侮辱し、実際に多くの預言者が命を失っています。ついに民衆を扇動して神の御子イエスさまを十字架で殺してしまったのでした。


このたとえ話は私たちにも向けられているということを受け止めなければなりません。私たちは主人である神さまから多くのものを与えられています。そのことをまず第一に感謝しなければなりません。多くのものとは、健康であり、生きて行く上に必要な衣食住であり、何よりも命です。私たちの体はいわば神からの授かりものであってリースみたいなものと思ってもよいかもしれません。生きて行く中で、だんだん欲求がエスカレートして行くことがあります。もっともっとお金が欲しい、美貌が欲しい、能力が欲しい、はてはもっと自由にさせて欲しい。などなどいくらでも切りがありません。

 多くの場合は、良い助言であってもなかなか聞き入れようとしないのではないでしょか。時には、相手を辱め、侮辱し、危害を加えたりすることに繋がっていくのです。最後にぶどう園の主人である父なる神は、独り子を私たちのもとに遣わしてくださいました。ところが、罪深い私たちはその忠告を聞かないばかりか、御子を手にかけて殺しさえします。そこまでするほどに、私たちの罪は自己中心的であり、残虐なものなのです。

20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この旧約聖書詩編118編22節の引用は何を意味するのでしょうか。私たちの罪の身代わりとして死んでくださったキリストこそが祝福の基となってくださったということが示されています。

イザヤ書53:5は私たちに語りかけます。「彼が刺し貫(つらぬ)かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」主イエスを刺しぬかれることで私たちに平和を与える、それが神のご意思ではないでしょうか。貪欲をはじめ、主は私たちが守ることのできない罪のために、打たれ、殺されねばならないところから救い、守るために身代わりの十字架に赴いてくださいました。それゆえこのイエスさまを救い主キリストと信じ、告白し、従う者に、神は完全な赦しを与えてくださるという破格の恵みを与えてくださったのです。

使徒パウロははっきり教会を迫害し、キリスト者を捕らえて牢獄へぶちこむ働きを率先していました。その彼が赦されたと言っているのです。

最後にガラテヤの信徒への手紙2章15節以下(p344)でそのことを確認して、終わりましょう。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 ・・・わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。


田無教会牧師 中山仰

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