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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年6月13日「心から献げる喜び」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章45-21章4節

  • メッセージ:中山仰牧師

 本当に困っているやもめたちに対して心からなる同情を示さない責任者は、赦されるでしょうか。人前で長い衣をまとって歩き回りたがることや宴会では上席に座ることを好んで行っていました。そしてやもめの家を食い物にして見せかけの長い祈りをすると列挙されています。人間は上に立つほど人前での身分や権威をひけらかすことをしてしまうものですが、やもめを食い物にするようなことが日常茶飯事になされていたのかという疑問がわきます。ユダヤ人の歴史家であるヨセフォスは著書『古代史』に、そのような不埒な律法学者、ファリサイ人いたと明記しています。

 皇帝ネロの時代に過越し祭りの神殿巡礼者は270万人に達したとヨセフォスは『ユダヤ戦記』に記しています。270万の人々の献金総額は7億円前後の金額であったと推測されますから、ここでの貧しいやもめのたかだか1日の賃金の64分の一の百円相当の献金など全く必要なかったのです。しかし主イエスはこの婦人の献げた2レプトンという最低の献げものを、金持ちが献げた奉納物よりも、どの人よりも多く献げたと最大の評価をされました。

 ラビを目指してその地位に預かった者たちも初めのうちは一所懸命に「孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ1:17)という言葉を胸に秘めて活動していたと推測します。やもめたちのために「長い祈り」もしてあげたと思います。その点では、私たちより本気で御言葉に生きようと思ったのではないでしょうか。であるならどこで間違ってしまったのでしょうか。

 人間は他人に良いことをして評価されているうちに、だんだんとそれが当たり前になって来て評価されないことに対して腹が立つようにさえなってきます。それは褒められているうちに、自分が偉い者であると錯覚してしまうからです。

 自分の気持ちが良くなるから祈るのでしたら、それは自分が報いを受けるためと言い換えてもよいことになります。そこには神の愛の領域や支配はありません。愛の神にすべてを委ねて、心を支配していただく中で祈り、愛し、奉仕することこそが求められるのではないでしょうか。

 そのスタンスで相手に対して向かうならば、決してあらゆる見返りを期待することはなくなります。時には祈り続けることに苦痛を感じるような戦いが生れるでしょう。それが主イエスの歩んでくださった道であり、私たちのために祈り続けることの中で起こり来ることでした。どんな中でも主は諦めず、祈りをストップすることはありませんでした。それこそが無私の愛の行為です。でありますならば、私たちも十字架の主の悲しみを覚えて、どのような場合にでも、キリストと共に生きることで解決するでしょう。そしてまた、必ず神が助けてくれるという信仰に変えられて行くはずです。

教会はまた、その主の言葉によって献金の例をお手本として喜んでささげて来ています。主イエスはこのやもめの献金の姿勢を見ていたように、今もなお、これからも私たちのおささげする献金を見ていてくださるということは間違いありません。

 主イエスは19章の終わりで、この神殿が祈りの家であることをお求めになられました。その時、この神殿を「真の神殿」「真の祈りの家」として重んじていたのは、律法学者でも祭司長たちでもなく、弟子たちでもなく、この貧しい一人のやもめであったことに主イエスは深い喜びをお感じになられたのではないでしょうか。滅ぶべき神殿においてなおここで、真実の祈りをしているこのやもめがいるということ、それが主を喜ばせたのです。

 ここで「生活費」と訳されている言葉は、「生活そのもの」と訳せます。つまり「祈りそのもの」に直結しています。やもめがそれを献げたということは、どれほど神を愛し、慕っていたかを表しています。神を愛し、信頼することはまさにそういうことだということを私たちに先立って行ってみせてくれた一人の貧しいやもめがいたということです。人の目を気にせず、なんのわだかまりもない行為こそ、真の愛の行為です。愛するとは、愛してくださる方の手にすべてを委ねてしまうことだからです。

 献金は有り余る中から献げるものではありません。私たちはみな欠けています。欠けていますから神の愛なしで生きて行くことはできません。そのような大きな欠点がある私たちが神の愛の中に生かされているのですから、神に対する愛を精一杯の思いをもって献げるのが献金なのです。ですから、そこでは献金の額は問われません。他の何ものも問われません。ただ注ぎ込まれる愛だけを問われるのです。

 これから主イエスは、もうすぐ十字架につけられて殺されてしまいます。そこから、その愛をもって私たちに命を注いでくださいます。私たちの計り知れない、恐ろしい罪を赦していただけるのです。私たちの一生の歩みはどのようになるのかは誰にも分かりません。ただそこにいつでも主の愛のまなざしがあり、変わりのないことを信じられる幸いがあります。それを信じて、信頼して全存在をもって、その主の愛に応える道をつくって行きたいものです。私たちの献げものはいつも貧しいものです。しかしそこにすべてを込めることはできます。主はどんなささやかな献げものでも、そこに私たちの命が込められるとき、主は喜んで受け入れてくださいます。


田無教会牧師 中山仰

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聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 20章41-44節 メッセージ:中山仰牧師 これまではユダヤ教側からの連続した質問責めでした。今度はイエスさまの方から反問の矢が放たれます。マルコとマタイによる福音書では、この記事の前に「最も大切な戒め」のお話しが入りますが、ルカはそれを省略しています。それによってすぐ前段との関係である復活についての論証の結びとして読ませようとする意図があります。つまり38節