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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年6月27日「本物の迫力」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 列王記上3章16-28節

  • メッセージ:中山仰牧師

 模倣したものより、オリジナルの方が圧倒的に迫力のあることは誰でもが感じることではないでしょうか。聖書の話もいろいろな形に引用されたり、少し形を変えてで世界中に広がっています。

1.今日の聖書箇所を読むたびに南町奉行所大岡越前の守忠相の大岡政談を思い出します。大岡裁きでも、二人の女がわが子の所有を争うという点においても同じです。大岡越前守忠相はその子を両側から引っ張らせて、勝った方に所有権があるという設定です。子どもは当然両方から腕を引っ張られるのですから、痛くて泣き叫びます。その時本当の親は自分の子可愛さに必要以上に引っ張れば取り返しのないケガをすることを恐れて、最後は泣き泣き手を放します。引っ張り勝った方の女は勝ち誇っていますが、大岡越前の守は、手を放した方の女が本当の親であると裁きます。実の親なれば、どうしてわが子の痛み苦しむ姿を見るに忍びないであろうという判断からです。

ところがここの聖書の個所で、裁判官であるソロモン王はわが子であると主張する二人の女を前にして、その子を真っ二つに切れと命じます。非常に厳しいものです。

本当の母親は、その子を哀れに思うあまり、王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と言ったのに対して、実の親でない方の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と堂々と言い放っています。ことほど左様に、オリジナルの本物にはコピーと異なる迫力の差は隠しようがありません。

2.また同様に、神社やお寺の入り口に手水といって竜の口から水がこぼれているものがあります。これなどは、出エジプト記30章17節以下に似た話が登場します。そこでは、臨在の幕屋に入る時に「手足を清める」ことが厳しく命じられています。それに従わない場合には、死を招くからというのです。神社やお寺さんにお参りに行って、手水を使わないと身を清めることになりませんから、祀られている方に対して失礼にあたります。といってそれをしない場合には、祟りがある場合があるのでしょうけれども、死ぬということは言われていません。

 聖書の方での清めの意味は、「死を招かないためである」とはっきり明示されています。このようにオリジナルでは単なる身の清めで終わっていません。そのほかにも、神道の祭儀について聖書の儀式と非常に似ていると言われていて、それらを研究している人もいるほどです。ちなみに臨在の幕屋をかついで移動したことがお神輿を担ぐ祭儀になったとも言われています。

3.さておよそ信仰者の中でヨブほど無垢な人物はいませんでした。洪水で有名なノアもいますが、ヨブの方が徹底していたように見えます。

 そのヨブでさえ、神と等しい訳ではありません。ヨブ記は難解な書物です。およそヨブほどの無垢な人物はいないからです。私たちと比べようがありません。ヨブの友人たちは、悪いことをしたから神から罰を受けているのと決め込んで、直ぐに悔い改めるようにと一見親切心からの忠告ですが、それらはヨブをかえって苦しめます。最後に無垢なヨブでさえついに神に、自分に起こっている理不尽さと、自らの苦しみを訴えたので神からとっちめられます。神が天地を造られた時にお前は何を手伝ったのかと。ひとつひとつ例示されるので、ひとたまりもありません。ついにヨブは悔いて主にお詫びをします。しかし無垢なヨブは悔い改めますので、主は赦してくださいました。同時に心無いことを忠告した友人たちもヨブに詫びさせます。さらに彼らをもヨブの執り成しによって赦されます。潔癖に近いヨブでしたがそれでも神の前には、一人のちっぽけな人間にしか過ぎません。

 ヨブほどの人物でさえ、完全に罪を赦されるための犠牲とはなり得ません。ことほど左様に、人間の罪は小さくありません。では誰がその犠牲となれるのでしょうか。それはイエス・キリストそのお方以外にありません。そのイエスさまの十字架の死の処刑のひながたの典型は、アブラハムの信仰でしょう。

4.老人になり子どもがいなかったアブラハム夫婦に神は現れ、子どもを与えると約束します。そして何とアブラハム100歳、妻サライが90歳の時に独り子イサクが約束通り与えられます。しかし、イサクが青年になったときに、その子をささげなさいという神からの命令です。子どもを失うということは親自ら死ぬこと以上に辛いこと、悲しいことと言われています。しかし、神の命令通りイサクを石を積んで祭壇としたところに横たえ、刃物を取って息子イサクを屠ろうとしました。その時天から声がしました。「その子に手をくだすな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22章1-19節)とおっしゃって、身代わりの雄羊を木の茂みに用意していてくださったのでした。そこでアブラハムは、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてさげたのです。

 この出来事に関しては、後に輪をかけた発展がなされています。アブラハムとの約束はその後、ダビデという王様との契約に引き継がれてその子孫から救い主としてイエス・キリストが誕生します。このお方は、私たちのすべての罪を赦すために犠牲の子羊として十字架に架けられました。十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれましたが、私たちの罪の赦しのためにはアブラハムの場合とは異なり身代わりの雄羊は用いされていませんでした。

 その十字架刑が執行された場所はエルサレムでした。その場所こそ、アブラハムがイサクをささげなさいと命じられたモリヤの地でした。このアブラハムの神に従順に従う行為がなされた場所において、神は独り子であるイエスさまをささげてくださったのです。ここにアブラハムを通して結んでくださった救いと祝福の約束の実現を通しての神の愛があります。神自らが犠牲を払って私たちの命を買い取ってくださるという十字架の身代わりの死についてのコピーを私はまだ知りません。私たち主イエスの十字架という尊い犠牲の上に罪を赦され、命を与えられています。ですから私たち一人一人が主のコピーとして、スケールは当然小さいですが自分の十字架を負って従う時に、主は豊かな恵みと命を与えてくださることは確かです。神々の中の真の神に栄光あれ!と賛美しつつ、この世を勝利で進みます。



田無教会牧師 中山仰

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