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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2021年8月1日「油断せずに祈れ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書21章29-38節

  • メッセージ:中山仰牧師

 ここの個所の背景には、「死」または「崩壊」というキーワードが横たわっています。人は必ず死にます。一般に死を縁起でもないとタブー視する傾向があります。しかし真剣に死ということを受け止めて考えていないと、いざという時取り返しのつかないことになったり、焦って何も手に着かないような状態に陥ることは間違いないでしょう。

 終末という言葉の響き自体恐ろしく感じるものがあります。私たちは誰であれ必ず死にます。その時に、何を得体のしれない、死と言う奈落の底へ落ちていくのではなく、神の国が近づいていると確信できるならばどんなに心が励まされるでしょうか。「わたしの言葉は決して滅びない」という主イエスの保証がさらに私たちに希望を与えてくれます。

 終末を「神の国が近づいたこと」「神の国が近づいていると悟りなさい。」と受け止める時、終末はただ恐ろしい様子で終わるのではなく、主を信じる者たちにとっての終末は「神の国の到来」であるという喜びとなります。個人的な終末、齢を取るとか、病の重くなるなかで、人としての不安はある程度あっても、それは絶望的な暗さや重さとはなりません。その向こうに突き抜けた神の国へ大きく脱皮するといいますか、全く違うもの、極端にいうと完全に生きる人生に変えられるのですから希望すら湧きます。

私たちは信仰の弱い者ですから、この個所は大きな励ましになります。というのは、この言葉をおっしゃったのは私たちの主イエス・キリストご自身だからです。主イエスが宣教の業をなさっておられる時ですから、この言葉は私たちに向けられていると同様に主イエスご自身の歩みと重なります。すなわち、御子イエスさまご自身の死に向かっての覚悟が伝わってきます。何よりもそのことにより主イエスは、徹底的に私たち罪人と歩みを共にしてくださるということが確認できます。神の子が呪われた死を引き受けてくださっているということは幾重にも私たちの心に刻みつけておかなければなりません。主に従う弟子たちにとってそれは悲しいことですが、「わたしを信じて従うあなたがたの確実な救い」となると励ましてくださいます。

 だからこそ21:35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。と忠告されているのです。

その時を見誤らないために、放縦や深酒、生活の煩いに注意しなければなりません。にっちもさっちもいかないような問題に直面したとき自暴自棄になっては、その日その時を見誤ることしかないでしょう。全面的に主に委ねて目を覚まして祈り続けるためには、主の到来を信じ続けること以外にありません。同様のことは、テサロニケの信徒への手紙一5章で使徒パウロにより、6従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 7眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔いますと注意されています。そして主を信じる私たちに対しては、9神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 10主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。 11ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。と力づけてくれます。

また32節「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」とあります。この時代について考えてみるとき大事なことは、それを私たちが決めることではなく、主イエスがお決めになることです。それを主に委ねないと、世の中ははなかいとか自分で決めて、もう駄目だとか滅んでしまうとなってしまいがちになります。

その考え方を敷衍すると、遺伝子組み換えや自然環境の破壊や原子力兵器とかさまざまな悪い要素に対して、深い絶望を感じることがあるかもしれませんが、絶望したり諦めてはいけません。様々な滅びの予感を覚えることが日常にたくさんあります。しかし、人間は自分で自分を滅ぼすことなどできないということです。滅びという裁きは神のみが与えるものです。人間が人間を滅ぼすことができるということは思い上がりの何ものでもありません。

 世界が滅びの中にうろたえ、埋没するような中にあって、その滅びに逆らうようにして立ち得るものがあります。それがわたしの言葉だと主はおっしゃいます。今日の礼拝において生けるそのキリストの言葉を聞いています。もしそうでなければ疲れている体を携えて、わざわざ教会に集まって来る必要はないでしょう。

 どんなに小さな教会堂であっても、崩れそうな古い教会堂であっても、会堂が滅びても御言葉は決して滅びることはありません。ですから、その御言葉に耳を傾けないのなら、その御言葉に希望を見出さない者は滅びるほかないでしょう。

さて私たちは、人の子の前に出る用意・準備はできているでしょうか。田無教会の教会堂が建てられて9月24日には5周年記念日を迎えます。喜びに満たされた礼拝を続けています。ただし、この会堂も前会堂がそうであったように一定の期間で滅びることは確かです。一般に50年くらいの寿命でしょうか。そのことも私たちに暗示していることであります。この会堂で何をするのか。何のための会堂なのかということを再確認しましょう。この礼拝を通して、私たちが滅びない命に生き得るかどうかということを真剣に考えなければならないといけないということです。主イエスがここで御自身の死を迎えて、私たちが経験したり想像することができない深い滅びの恐れの中に立ちながら、天地は過ぎゆく、あなたがたの肉体もまた過ぎゆくものでしかないと語ってくださったことを深く心に刻みつけたいのです。あなたがたの魂もそのように必ず滅びる。しかし、しかし、わたしの言葉は決して滅びることはない。そう言うわたしが、あなたがたを迎える時が来る。その時まで目を覚まし、油断しないで生き続けなさい。祈り続けなさい。そのように励ましてくださっています。この御言葉に生きること、そして、その御言葉に応えるために、目を覚まして祈り続けることです。それ以外に私たちの教会のなすべき業はないと信じます。その一点に集中して、主の来られるまで日々を共に生きてゆきたいのです。そしてそれぞれの地上の生涯を終える日を迎えたいと願うものです。



田無教会牧師 中山仰

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