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日本キリスト改革派 田無教会

2021年9月12日「人の企みと神の計画」主日礼拝

  • 聖書箇所:ルカによる福音書22章1-13節

 

 過越祭というイスラエルにおいての最大の祭りの時に合わせるように、イエスさまの弟子であるイスカリオテのユダの中にサタンが入るという実に恐ろしき人間の罪が描かれている場面です。場面設定が人間の罪と重ね合わせられているという、迫力ある、恐ろしい展開がここに見られます。

 過越しと言う言葉が、1-13節の段落に実に5回用いられています。過越し祭りは、紀元前1400年代または1300年近くに奴隷の地エジプトから脱出する際の神のエジプトの対する10の厄災の最後の一番重いものでした。神を畏れ神の裁きを信じる者は、鴨居と柱に小羊の血を塗っておくことにより、天使たちの裁きの剣から免れるという恐ろしい厄災です。もしその命令を無視するならば、人間も家畜もすべての長子は剣に架けられるという内容でした。その裁きから過越されるということで過越祭と言われています。その日以来今日に至るまで、これからもなおこの祭りはイスラエルにおいて守られ続けられます。もう一つ除酵祭という祭りがありますが、これは過越し祭とセットでして、エジプトから脱出するときに急いで逃げるために、イースト菌を入れないで焼いたパンを非常食として持ち出したことを記念する祭りで、過越し祭りとセットで祝われます。

 日ごろからナザレのイエスを何とか葬ろうとしていた祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスさま暗殺を企んでいました。ただし、過越し祭の前後は暴動が起きるといけないから避けようという示し合わせがありました。ところが、あにはからんや神の御計画は、まさにこの時だったのです。ここに人間の企みと神のご計画の大きな差異があります。

 イエスさまを何とかして陥れようの企んでいた祭司長たちや律法学者たちは、その機会を狙っていました。そこになんと都合のよい申し入れがありました。それがイスカリオテのユダの密告です。

 このユダの裏切りの動機について、福音書は幾つかの角度で記しています。また憶測も種々あります。ヨハネによる福音書12章6節で、主イエスに香油を注いだ女性の行為に対して、「なぜ、この香油を三百デナリオンで打って、貧しい人々に施さなかったのか。」と咎めています。続けて「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。」と明言されています。

その代表的な説は、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と説明がなされているいわば貪欲説です。2つ目は単純に信仰を喪失したことが考えられます。または主イエスが期待通りではなかったための末を悲観しての寝返り説です。3つ目は面白い説で、政治的にメシヤを期待して入門したのに一向に主は改革の気持ちがないことを見切って、危地に追いやって奇跡の力を発揮させようと仕組んだ一芝居的なものです。4つ目の説、はここのルカの表記で「ユダの中にサタンが入った」という件は明快ですが神秘的です。これは荒野のサタンからの誘惑において、誘惑を退けられた時「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」の続きで、悪魔の再攻勢が十字架の時であったという線を主張したいものでした。

 それぞれの説に対して説明不能や疑問点は残ってしまいます。金欲しさの裏切りでしたら、なぜ自殺したのかという説明はつきません。お金を手に入れたのですから。また2つ目の信仰喪失説においては、弟子をおりたとしても裁判の時になぜ証人として立たなかったのかということが問題になります。そして何よりも、主イエスの死刑判決に対して後悔したのかの説明がつきません。

 その時の様子から少し詳しく探ってみましょう。マタイによる福音書27章3節以下で、イエスさまに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司著たち長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言っていますが、「我々の知ったことではない」と突き返されたために、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだのでした。

ここでユダは後悔したという言葉に注目しましょう。後悔と悔い改めとは全く違うということです。コリントの手紙二7章8-9節を開いて見てみましょう。新約聖書333頁です。パウロがコリントの教会へ叱責の手紙を書いた事情が書かれています。<あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。>とあります。(かなり古いコマーシャルで申し訳ありませんが、まさに後悔だけならサルでもできるのです。)

本当に悔い改めたのなら、心に諭された時に裁判に出て行って反対証言すらできたのではないでしょうか。ユダはもはやそのような心が残っていなかったようです。というのは、ヨハネによる福音書13章21節以下に主ご自身はすべてをご存知で裏切りの予告をしている個所があります。ひとりの弟子が裏切る者について<「主よ、それは誰のことですか」と言うと「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられました。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。>「夜であった」という表現はとても印象的な気がします。悔悛の余地のないような表現に思えてなりません。本当は、名指しこそされないものの裏切りを指摘されたのですから、ドキッとして躊躇してもおかしくない場面ですね。ところがユダは平気で主を裏切ってしまいます。 

このような場面においてもユダはしらを切通しています。多分に、これほど大変なこと、つまり死刑になるなどと彼は思っていなかったのではないように思われてなりません。というのは、①まず、ユダが主イエスを裏切ったその代償は銀貨30枚であったということです。銀貨1枚は一日分の賃金ですから、30日分で一か月の給与にしかなりません。奴隷を買うお金でもあります。ここを読むたびに主イエスは安く見積もられたものよと一人憤慨していました。個人的な感想ですが、もっともっと高く値を付けても、いくらでもユダヤ当局では払ったのではないかと思えるからです。②さらに裏切りの場面のマタイによる福音書26章17節以下で、主が裏切る者がいることを指摘したとき<イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者がわたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」>通常裏切ろうとしている決意をしているならば、こんなに軽はずみに「まさかわたしのことでは」などと言えるのでしょうか。ここで主が裏切り者であるユダを名指ししたらどうなったでしょうか。たちまち他の弟子たちによって殺されたと推測もできます。主が逮捕された時、祭司長たちの下役の耳を切って落とした熱血漢のペテロもいたのですから。私の推測ですが、主イエスはユダが裏切ることをなにもかも承知で、ユダに最後の悔い改めの機会を与えられたと思えるのです。

 しかし残念ながら、ユダは立ち帰ることができませんでした。ここにおいて、罪の恐ろしさを思い知らされます。小さい罪でも恐れましょう。罪からは徹底的に離れましょう。3節の「十二人の中の一人」という言い方は珍しい表現です。12弟子の一人という数に入れられていたという暗示なのです。つまり、人数の点だけで仲間入りしていて、心では仲間入りしていなかったとなります。心からの参加でないので、その隙間に悪魔が入れたのです。

 ヤコブの手紙1章で誘惑に遭う時とき、だれも、<「神に誘惑されている」と言ってはなりません。・・・むしろ人は、それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。>とある通りです。

 ですから、ユダの行いは私たちにも問われます。ユダが主を売り渡すことをそんな大それたことではないと踏んでいたように、私たちも神の命令に従わないことをそんな大きなことと思っていない節があるからです。それがまた罪の恐ろしさです。エバは「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という命令を小さいこととしていたのでしょう。それで簡単に悪魔に誘惑されてしまいました。その罪の堕落の代償は全人類から生まれる子孫すべてに罪が及ぶという恐ろしい結果につながってしまったのです。罪はどんなに小さくとも、小さいうちに摘み取ってしまうことです。

 また、3節に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」という言葉があります。ここのユダの肩書に「イスカリオテと呼ばれていたユダ」という過去形ではなく「呼ばれている」という現在形の表記があります。つまり裏切りの心は弟子の一人の中にあったということをはっきりと記している文章だということです。このことから考えると、はっきり現在の弟子である私たちにも向けられているということに注意したいのです。12弟子はまさに後に12使徒と呼ばれて教会の中核を担っていくことになる者たちです。ということは教会の中から、教会に属しているとしか言いようのない者が、主イエスを裏切り、売り渡しているという事実を覚えなければなりません。

さらに4-5節をみると、ユダからイエス引き渡しの相談を持ち掛けられた祭司長たちは、「喜んで、ユダに金を与えることに決めた。」とあります。ですから、もうすでに売渡の取引は成立しています。後は取引の現物である主を引き渡すかどうかだけのことです。主イエスはそのことを良く知っておられました。知っていながら最後の晩餐、つまり今日の聖餐式に預かることを許されています。つまり最もきよい交わりと尊い食卓の場の場面で、その裏切りのことが明確に記されているのです。愛する弟子たちの中に裏切る者がいることを承知の上で、つまり最も深い悲しみをもって主はこの弟子と相対されているのです。ですから過越しの時に、御自分は殺されるということを決めたのは、祭司長でもなくユダでもありません。主イエスご自身であり、それをお決めになっておられた父なる神の御計画のままに運ばれているということです。

それは後半の過越しの小羊を屠るべき除酵祭の日の会場準備においてもはっきり示されています。主御自身がペトロとヨハネとを使いに出して命じています。9節以下です。<二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。>

とあるように、明らかに主イエス指導のままご計画通りの状況でした。何か一見神秘的に見えるかもしれない会場探しですが、明らかに主はこの家の主人と懇意であり、前もって場所を貸してくれるように頼んでおいたものであることが、マタイによる福音書26章18節からよく分かります。予約済みであった会場を捜すように仕向けた書き方は、ルカの19章の後半のエルサレム入城の時のろば探しと似ています。多分に著者のルカの書き方は、主イエスに預言者的な栄光を賛美させたい気持ちにあふれていることがよく伝わってきます。いずれにしろ、ここの会場探しにおいても、主イエスの側のイニシアチブがあることが分かります。


 詩編の詩人は主の御計画を33編10-11節で「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」と賛美しています。

 そもそも過越祭とは何かということを繰り返すようですが、大事なところですので、もう一度根本的に捉え直してみましょう。神を知らず、神に従わないイスラエルの民に対して、彼らのエジプトの奴隷状態の悲哀の叫びをお聞きになられて、解放するためにモーセを立てられました。モーセが生れてからもなお「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25)のでした。

 モーセが誕生する時にエジプトの王ファラオは、イスラエル人の数が増えるにあたり、戦争が起きたとき敵側に着いて加担することを恐れて生まれた男の子全員を殺せとの命令を出しました。そのような中にあって将来の指導者として、あろうことか、こともあろうにエジプトの王子として匿われて育てられたのがモーセでした。それは奇跡以外のなにものでもありません。すべて神のお計らいによります。そしてエジプトを出る際に、神の命令で過越の裁き、すなわち神の言葉を信じる者との間に裁きが行われました。

 約1400年後のイエスさまの時代に、その祭りの真っただ中で、神の御子が十字架に上げられて殺されるという信じられないような出来事が起こります。祭司長たちは暴動が起きるといけないから、過越祭の時はイエスさまの逮捕を絶対に避けると決めていたにも関わらず十字架刑は実行されました。これこそ人間の企みと全く相反する、全く私たちの予想だにしない神の計り知れないご計画でした。

使徒言行録2章23節の使徒ペトロの説教の中で語られています。神から遣わされたナザレのイエスの奇跡と不思議な業としるしを見ていながらこのお方を十字架に架けてしまいました。<このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。>とあります。  神の民イスラエルが奴隷の地からの解放としての過越祭は毎年行われています。そして現在でも行われ続けています。その祭りの祝いの時に、主イエスは御父の示された時として受け止め、弟子のユダの裏切りを目の前にしつつ、御自身の向かわれる道を静かに厳粛に受け入れておられたのでした。まさに聖書の救いの壮大なドラマは旧約の初めにもたらされたこのような神の救いの秩序がこうして新約の時代に、イエス・キリストにより完成したのでした。

 それ故にまた、神の壮大な救いの御計画もまた、この主イエス・キリストの十字架の贖いにより、私たちにももたらされているという現実を受け入れることができます。ですから一人の人の救いは世界の片隅でなされようとも、宇宙規模の神の救いの御計画の一端であることを受けて留めいただきたいのです。その救いは当たり前のことではありません。神の深慮による御計画であり、神の計り知れない御計画の一端であり、御子の十字架の死により惜しみなく与えられてた赦しであります。この神の愛をどうか覚えて、洗礼に授かるという大きな恵みをかみしめ、喜んで生涯を主に在って生きると同時に、その思いをもって大胆にそれぞれの人性を送っていただきたいのです。そのように受け止めるとき、膨大な聖書はあなたに向けられている御父の愛の贈り物であることが分かります。

主の御名はほむべきかな、その御恵みは計り知れないと主に従う私たちは歌いつつ、主の御前に集まり、礼拝を通して主の栄光を現わして行くのです。アーメン


田無教会牧師 中山仰牧師

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