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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年1月23日「愛はすべてを結ぶ」主日礼拝

  • 聖書箇所:コロサイの信徒への手紙3章12-17節

 

 「愛はすべてを結ぶ帯です。」と言う言葉が短冊に記されたり、木彫りの聖句によく用いられる言葉でおなじみでしょう。これを巡って学びましょう。

 たとえば、聖書の半分以上は旧約聖書で占められています。それらの主な律法は、掟ですから固くしっかりしていますが、そこに愛が貫かれているということを知るとき、俄然その言葉は反発的や疑問的な思いではなく、救いの言葉として受け入れられるようになります。

膨大な律法の中で“最も重要な掟”は何か、という律法学者の質問に対してイエスさまは答えています。<「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。>(マタイ22:34-)

主はある時言われました。「わたしは律法を廃止するために来たのではなく、完成させるために来たのだ」と。律法の完成とは何でしょうか。まさに愛に基づき、愛に向かって、愛の一致を保つことであり、また御自ら実践され、十字架に架かられて私たちの罪の身代わりとなってくださったことこそ、愛の現われにほかなりません。

使徒パウロはしかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)で神の愛を断言しています。

ヨハネ15章では、15:9-13 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 とあります。

主はそれに先立つ13章で、「34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と新しい掟を表されています。

同じようにヨハネの手紙も愛が散りばめられています。ヨハネの手紙一4章から見てみましょう。445頁です。7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネ一4:7-12)

 父なる神は、悪いことを決して見逃す方ではありません。私たち人間の罪に関しても当然です。では一体誰が救われるのでしょうか。誰もいません。自分自身のためにも、子供のためにも自らを犠牲にしても全く足りません。そこで神は御子をこの世にお遣わしになり、十字架の犠牲とされ、御子を死に至る鞭として十字架につけられました。ここに愛があります。

また、愛については、親子の関係からも知ることができるでしょう。子供が失敗する、それが悪いことだったら注意します。愛があるからです。逆に、子供が悪いことをしているのにそれを見過ごしているのなら、それは愛情がないと思われることでしょう。

昔見学した少年院で生徒の短冊に、「お父さんあの時なぜ怒ってくれなかった」と書かれていたのを思い出しました。それを見た時に思わず驚きました。愛情の薄い子どもたちは、時に父親がいかに真剣に自分を見ているのか、または関心をもって接していてくれるのかを計っていることを知ったからです。

箴言には「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。・・・それは祈りとなり、全身を健康にする。」(箴言4:20,22)というような個所が何回かあります。もちろん、「子供を怒らせてはならない」と言われていることは当たりまえで、配慮と思慮をもった接し方が必要です。親は子供たちを育てる責任があります。それは主の戒めでありますが、同時に、親である私たち自身がまず「主を畏れる」模範を示すことであり、その中へ子供たちを共に招くことから始めます。親の責任として父の諭や母の教えに聞き従えという戒めは「悪に近づかないように」という配慮からです。「僕を幼い時から甘やかしていると、後には手のつけられないものになる。」という箇所もあります。

私たち信仰者は、御言葉を通して、罪深い心に、キリストの十字架の血潮の一滴ずつによって愛を刻み込まれているのです。それがなければ、キリストの愛を知ることはできませんでした。ここに神の愛があふれています。


田無教会 中山仰引退教師

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