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日本キリスト改革派 田無教会

2022年10月30日「すべての国よ、主を賛美せよ」主日礼拝

  • 聖書箇所:詩編117編1-2節

 

505年前の10月31日、ドイツの修道士マルティン・ルターが掲示板に張り出した公開討論の呼びかけ「95カ条の提題」が教会全体を巻き込む論争を引き起こし、最終的にルターはローマ・カトリック教会を追われることになりました。結果、ルターと彼の支援者らは、ローマ・カトリック教会に抵抗する「プロテスタント」の教会として歩み出すこととなり、彼らの活動は「宗教改革運動」と呼ばれるようになりました。今日のプロテスタント教会は、毎年10月31日を「宗教改革記念日」とし、それに近い10月の最終主日に「宗教改革記念礼拝」を守ります。

詩編117編は、詩編に収録された全150編の中で最も短い歌です。とても単純で、それだけに有無を言わさぬ強さというか、信念を感じさせる讃美歌です。

原語(ヘブライ語)では「讃美せよ」という語から始まる117編のテーマは「讃美せよ」ということです。1節前半を直訳すると「讃美せよ、主を、すべての国民たちよ」となります。「すべての国民たち」とは誰でしょうか。イスラエルの全国民のことでしょうか。それだけではありません。ローマ15:11を読むと、使徒パウロが「すべての国民たち」を「すべての異邦人(たち)」と解釈していることが分かります。使徒パウロのお墨付きがありますから、私たちはこの「すべての国民たち」を「全世界の国(々)」のことであると解釈可能です。117編は、東アジアのさらに東にいる我々にも「讃美せよ」と呼びかけているのです。

詩人が世界中の人々に「主を賛美せよ」と呼びかける理由は、とても単純です。「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い(2節)」からです。

イスラエル民族にとって、「主の慈しみとまこと(誠実)」というのは、弱小民族であったイスラエルが「主の民」として選ばれ、主なる神の保護の下(もと)にあったという歴史的事実を意味します。彼らには秀でたところがなかったので、彼らが選ばれた理由は「主の慈しみ」以外に説明がつきません。彼らの祖先アブラハムが「祝福の源」として選ばれた理由も同様です。イスラエル民族は、主の慈しみを受けたアブラハムの子孫であるというだけで、その後も神様からの祝福を受け続けてきました。民がどんなに不信仰な態度を取っても、神様は民を見棄てませんでした。それが、一度イスラエルを選んだ神様の「まこと(誠実)」です。「もうダメだ」と民が絶望しそうになっても、神様の慈しみがどんな人間的な思いをも超えて力強かったので、民は滅亡を免れました。そしてどんな時にも神様のまことは一貫しており、永久(とこしえ)であったのです。

イスラエルの民はまず、自分たちが神様によって守られてきたという歴史を振り返って「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」のだと確信しました。そして、それだからこそ、主なる神様への讃美をするようにと「すべての国、すべての民」にも呼びかけるのです。

しかし、呼びかけられた「すべての国、すべての民」の側は、主を賛美することができません。彼らが主なる神様の「慈しみとまこと」を知らないからです。諸外国からは、イスラエルの主なる神様は「いるかいないかわからない神」と見られていました。なぜなら主なる神様は「目には見えない」からです。日本でも、神社の神々には「神体」があり、(一般人が目にすることはなくても)物素として存在します。仏教寺院には仏像もあり、大仏などは大きさでその存在感を示します。そこに神々が「ある」「いる」「見える」ということがあると、宗教は簡単に、人々に神の存在を教え、それらに祈りをささげさせられます。他方、イスラエルの主なる神様は、目に見えず、形によって表現されない神です。イスラエルは弱小で滅亡すれすれの国と見られていましたから、諸外国から「彼らの神が強いはずがない」と見られたのも仕方のないことです。したがって、諸外国の人々がイスラエルの主なる神様を賛美することはありませんでした。

そんな中、諸外国にも主なる神様を賛美させる方法が一つあります。それは、主なる神様の慈しみとまことが実在することを、諸外国の国民に語り伝えるという方法です。言い換えれば、2節「わたしたち」の範囲に、「すべての国、すべての民」も含まれるのだと説き明かすことです。使徒パウロがローマ15章でローマ人に福音を説いたのも、その一環でした。パウロが「わたしたち」の範囲をイスラエル人以外にも拡大できたのは、イスラエルを選んで救った慈しみとまことの神様は、御子イエス・キリストによって、全世界をお救いになられた神様でもあられるからです(ヨハネ3:16)。神様の慈しみとまことが注がれる範囲は、イスラエルの民以外の「すべての国、すべての民」にも及びます。諸外国の人々も、自分が生かされているのは「神様の慈しみとまこと」によるのだと理解できたら、主なる神様を賛美できるようになってゆきます。

宗教改革者らは、聖書を民衆の言葉に訳し、讃美歌を民衆も歌えるものとして整えました。宗教改革運動は民衆から遠く離れた所で行われた闘いではなく、聖書・讃美歌を民衆のものとする地道な闘いでもあったのです。私たちが日本語で聖書を読め、日本語で賛美できるのも、宗教改革者らの精神が日本のキリスト教会に生きているからです。今ではローマ・カトリック教会も聖書を翻訳し、各国語で讃美しているほどです。「改革派教会」は、「御言葉によって常に改革され続ける」教会です。117編を読むときにも、私たちは神礼拝にふさわしく改革されてゆきます。私たちは神様の慈しみとまことを知らない日本の多くの人々に、自分の言葉でイエス様の救いを紹介することができるようにされます。また、礼拝説教が外国語のように難解でなく、117編のように簡潔で力強くなるよう、説教者を祈りで支えることもできます。そして讃美歌を歌いこなして、新来者も安心して賛美に参加できる環境を整えることもできます。

「主の慈しみとまことはとこしえに、私たちを超えて力強い」というシンプルな福音が、私たちの礼拝生活を改革してゆきます。宗教改革を思い起こした今週、私たちの礼拝生活も御言葉によって改革されてゆくように、祈りながら・歌いながら、歩みましょう。(定住伝道者 伊藤築志)

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