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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年11月20日「信じて祈れば」主日礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書21章18-22節

 

私(伊藤)が牧師になるという決心をしたきっかけは「祈り」でした。田無教会が無牧であった2017年8月のある朝、当時会社員であった私は通勤電車の中で「牧師を早急に与えてください」と教会のために祈っていました。それは毎朝祈る祈りでした。しかしその祈りは、決して立派な祈りではなく、神様に対しての疑い・諦めの混じった祈りでもありました。しかしその朝、私の祈りは、諦めの混じった祈りから、田無教会に牧師を遣わすために伊藤を用いようとされているのだという確信に満ちた祈りに変えられました。

今朝与えられた御言葉の中で、イエス様は「葉のほかは何もなかった」実のなっていないいちじくの木を呪い枯らされました。イエス様はなぜ、そのような奇跡を起こされたのでしょうか。そもそも奇跡というのは、それを目の当たりにした人々に神様の御国のありさま(神様の御前における完全な平和)を示し、御国の素晴らしさを知らせるものです。きょうの箇所の奇跡も、神様の御国のありさまを教えるための奇跡でした。

その前日、イエス様はエルサレムの神殿におみえになりましたが、そこでイエス様は、「神殿」とはもはや名ばかりで、実際は商人たちの商いの場になってしまっていたことを、激しくご指摘になりました(18:12-13)。イエス様は、見た目は立派なのに内容が伴っていない神殿について、当時の宗教指導者たちの問題 ―ひいてはエルサレムの宗教全体の問題― であると捉えておられました。そこでイエス様は、翌朝、「葉だけが立派で、肝心な果実が伴っていないいちじくの木」を呪うことで、内容のない宗教は神様の御国においては呪われ滅ぼされるのだということをお示しになったのです。

奇跡を目の当たりにした弟子たちは、驚きはしたものの、すぐに御国の完全な平和を悟って「神を賛美した」わけではありません。弟子たちが奇跡の意味を理解するには、もう少し説明が必要でした。イエス様は、弟子たちにこうお教えになりました。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる(21節)」。つまりイエス様は、御国における「主なる神様を信じて祈る祈り」の効果をお教えになったのです。

「信仰を持つ(信じる)」と「疑わない」は共に、実際は同じ意味ですから、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」というのは、同じことを繰り返す強調表現です。イエス様が何を強調されたのかというと、「信仰さえ確かにあれば」ということです。

「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言う」とは、イエス様が起こされた奇跡よりも大規模で大げさな事柄です。そのような、イエス様がなされていないような大きな奇跡をも、弟子たちが「信仰を持ち、疑わないならば」起こすことができるのだ、と、イエス様はおっしゃるのです。「信じて疑わずに祈る」祈りは、それほどまでに大きな力を持ちます。

イエス様は締めくくりに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる(22節)」とも教えておられます。この言葉を、「『信じて祈る』祈りの力さえあれば、たちまち億万長者にだってなれる」という意味で捉えてはなりません。本当に主なる神様を信じる人には、神様を差し置いて、自分の利益のために何かを願うということが恐れ多くてできません。イエス様がいちじくの木を呪い枯らされた奇跡も、空腹ゆえに怒りが湧いたイエス様ご自身の利益のためではなくて、神様の御国のありさまを示すための奇跡でした。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」というのは、神様のご栄光を現わすためのものなら何でも得ることができる、という意味です。信じて祈る者は、いちじくの木を枯らして主のご栄光を現わし、山に命じて動かして主のご栄光を現わし、祈り求めるものを何でも得て主のご栄光を現わすことができるのです。

ですから、私たちが「求めるものを何でも得て」奇跡さえ起こせるようになれたときにも、その奇跡はあくまで主なる神様のご栄光や、神様の御国のありさまを現わすのです。奇跡を用いて私たち自身の何か(信仰深さ? 立派さ?)をアピールしようとするならば、それは奇跡の目的外使用になってしまいます。

主なる神様への信仰を、聖書や聖霊の助けなしに、自力で獲得することはできません。神様を信じるためには神様を知ることが必要ですが、神様を見ることも触って確かめることもできない私たちは、神様を知ることに関して全く無力です。しかしその無力さから目をそらして、信仰を得ていないのに、振舞だけ立派な信仰者のようであろうとすることは、「葉があるだけで実を結んでいないいちじくの木」のようなものです。

イエス様がいちじくの木を枯らされた奇跡は、天の御国には見せかけだけの信仰はないのだということを示す奇跡です。そしてイエス様は、そのような見せかけだけの信仰を滅ぼす力が、「信じて疑わずに祈るならば」私たちにも与えられるのだともお教えになりました。それは、将来天の御国に召された後だけでなく、今この地上で生きる間にもその力が与えられるということを含みます。神様は、地上にも、御国の平和をもたらそうとされています。地上でも、見せかけだけの信仰は滅ぼされます。私(伊藤)の場合、疑いの混じった「実のないいちじく」のような祈りが滅ぼされました。それどころか、私だって牧師になれるという確信までもが与えられました。

未だに私(たち)には神様を疑う罪が残っています。しかし恵み深いことに、神様はそのような私たちを赦し、御国にふさわしい「信じて疑わない」確かな信仰を与えてくださいます。見掛け倒しの祈りしかできない自らの罪を悔い改めた私たちは、神様の御力によって、「信じて疑わない」確かな信仰が少しずつでも与えられるのだと覚えて、祈りつつ、今週も歩みましょう。

(定住伝道者 伊藤築志)

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