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日本キリスト改革派 田無教会

2022年12月4日「おめでとう、恵まれた方」主日礼拝(アドヴェント第二主日)

  • 聖書箇所:ルカによる福音書1章26-38節

 

クリスマスを待ち望む「アドヴェント(待降節)」の期間に入りました(今週が2週目)。クリスマスは「イエス様のお誕生日」でもありますが、それより重要なことは「待望の救い主が生まれた日」であるということです。だから、私たちはクリスマスを指折り数えるようにして待つのです。私たちが二千年前に生まれたイエス・キリストを毎年待ち望むようにするのは、自分たちをかつてのイスラエル民族の「救い主待望」に毎年重ね合わせているのと同じことです。きょうは、イスラエル民族の、特におとめマリアの立場に立ったつもりで、御言葉に聞いてまいりましょう。

きょうの箇所(1:26-38)は、イエス様がお生まれになる前の出来事です。ナザレというガリラヤの町に住むマリアというおとめのところに、天使ガブリエルが遣わされてきました。当時女子は12歳で成人し婚約するのが一般的でした。おそらく12歳であったマリアも、ダビデ家のヨセフという人と婚約していました。そのおとめに対して、天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる(27節)」と呼びかけました。「主があなたと共におられる」というのは、旧約聖書にも何度か登場する、神様に仕える働きに召された人に対する励ましの言葉です。マリアは、「天使がいったい何のことで私を励ますのだろうか」と考え込みました。

天使は名前を呼びながら「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた(30節)」と続けました。「恐れることはない」も、不安や戸惑いを覚える人を励ます言葉です。彼女がどのような恵みを受けたかというと、このマリアがイスラエル民族待望の救い主を出産することになる、という恵みです(31-33節)。天使は、マリアが産む男の子について、偉大な人、いと高き方の子、(ダビデ王家の子孫として)ダビデの王座に着く者、永遠にヤコブ(父祖イスラエル)の家を治める者 ―すなわち、救い主― であると言います。マリアは、この待望の救い主がこの地上に生まれるためのキーパーソンとして選ばれ、召されたのでした。

待望の救い主を産む母になることは確かに光栄なことでありましょうが、当のマリアとしては、これは同時にとんでもないことでもあります。彼女がまだ、結婚生活を始めていないからです。イザヤ7:14を下敷きとした「あなたは身ごもって男の子を産む」という告知(31節)を受けたマリアは、「自分は既に身ごもったのだ」と理解しました。(なのでマリアは「どうして…。わたしは男の人を知りませんのに(34節)」と質問したのです。)婚約中で結婚生活に入る前のマリアの妊娠となれば、両家とも大騒ぎするでしょうし、ましてその子を「ダビデ王家の子孫として(ヨセフの子として)産む」ことにも強い反対が予想されます。ナザレという小さな町で、どんな噂が流れ、心無い一言に傷つけられるかもわかりません。マリアが神様からの恵みを受け入れ、キーパーソンとしての役割を果たすためには、周りの人たちとの摩擦を経験しなければならないでしょう。実にマリアが召された通りに神様にお仕えするには、多くの困難が伴いました。

神様があと何か月か(彼女らの結婚生活が始まるまで)待ってくれたら、そんな苦難は避けられたかもしれません。しかし、それでは、生まれた男の子が「偉大な人、いと高き方の子」であることのしるしとなりません。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力(=聖霊なる神の力)があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子(=偉大な人、いと高き方の子)と呼ばれる」とも告げます。男性を知らないおとめが身ごもることは、聖霊なる神様の御力が働いたことをマリアに示します。また、聖霊なる神様が出産に備えるマリアに降り、その力が彼女を覆います。聖霊の御力は、苦難に立ち向かう力をマリアに注ぎます。そして生まれる子もまた、聖霊の御力に包まれて生まれます。こういう特別な妊娠・苦難に耐え抜いた出産によって聖霊に満たされた子どもがおとめから生まれる時、救い主メシアの誕生というイザヤ書の預言が実現します。だから、メシアの出産には、敢えて苦難の多い、結婚生活前の妊娠が不可欠でした。

マリアは言います、「わたしは主のはしため(=しもべである女性)です。お言葉どおり、この身に成りますように(38節)」。彼女は「私は普通の女の子だから、そんな大それたことはできません」とは言いませんでした。確かにはしために過ぎない彼女には特別な力はありません。「お言葉どおり、この身に成る」とき、マリアは苦難を背負います。しかし彼女は「主のはしため」を名乗り、12歳のおとめにとって非常に重いこの祈りをもって、自身の献身を誓いました。そうすることができたのは、マリアが、彼女を追おう聖霊の御力を信頼したからです。言い換えれば、天使の「神にできないことは何一つない(37節)」という言葉を、そのとおりに信じたからです。

教会は、言わばキリストの体であり、この地上で救いを完成させるという神様の御業にお仕えする共同体です。田無教会に遣わされている牧師は経験の浅い(しかもすぐに体調を崩す!)者ですが、神様がこの教会に「救いを完成させるための具体的なこれこれの大きな働きを、あなた方は担う」と仰ってお召しになったとき、私たちはどうするべきでしょうか。「この教会は牧師の経験が浅いので、あと何年か待ってください」と申し上げて遠慮すべきでしょうか…そうではありません。イエス様は全世界のキリスト者を宣教の業に遣わされた時、「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる(マタイ21:20)」と仰って励まされました。その励ましを受けながら、教会は歩みます。また、教会は聖霊の御力が注がれているからこそ、教会でいられるのです。私たちのところにも、聖霊が降られ、いと高き方の力が私たちを包んでいます。だから、マリアと同じように、様々な苦難を覚悟しながらも「私たちは主のしもべ・主のはしためです。お言葉どおり、この教会に成りますように」と献身を誓うことができます。自身を献身者マリアに重ねるアドヴェントこそ、神様の御業のために献身しましょう。その献身が、クリスマス諸礼拝に家族や友人を招き、キリストの福音を宣べ伝えることにつながればと思います。

(牧師 伊藤築志)

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