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日本キリスト改革派 田無教会

2022年4月10日「イエス・キリストの死と私たち」主日礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書27章32-50節

 

イースター〔復活祭〕を控えた今週1週間は特に、イエス様の十字架と死を覚えて過ごす週です。イエス様の十字架と死を覚えるとき、十字架につけられたイエス様を見つめるだけで十分でしょうか。マタイによる福音書の記事は、イエス様に集中するのではなく、むしろ十字架の周りにいた人たちに注目させるような記述がされています。イエス様の死は、その周りにいた人たちの姿と共に理解されなければならないようです。今日は、イエス様の死と、その死を見ていた人々と、聖書を通してイエス様の死に触れる私たちとのかかわりについて、御言葉に聞いてまいりましょう。

32節から44節までの間でイエス様が主語となっている箇所は、34節の後半のちょっとしたところだけです。あとはすべて、周りでイエス様を侮辱する人々が主語です。イエス様は自分がかかる十字架を担いで歩かせられますが、それを持つことが出来ないほどに(拷問を受けて)弱っておられたようです。そのような状況も、マタイはイエス様のお姿に注目することではなく、兵士が通りがかりの「キレネ人シモン」という人を徴用(無理に担がせた)したことで表現します。マタイが示し続けたのはイエス様の有様ではなく、その周りにいた人たちです。

十字架の周囲の人々は何をしていたのでしょう。まず、ローマの兵士たちが「苦いものを混ぜた酸いぶどう酒(薬を混ぜた安いぶどう酒=麻酔)」をイエス様に飲ませようとします。麻酔は苦痛を和らげますから、これは侮辱というよりも一種のやさしさなのかもしれません。しかしイエス様はそれを拒まれます。私たちは、イエス様の苦しみを安く見積もりたい思いを持っていないでしょうか。イエス様の苦しむところを見たくない、そこから目をそらしたいのではないでしょうか。残虐な十字架刑の苦しみが、麻酔によって多少は緩和されていたらよかったのにと思わないでしょうか。しかし、イエス様はそれを義人はされませんでした。痛みを真正面から受け止めきる覚悟をしておられたのです。しかしこのこともまた、マタイはイエス様よりも麻酔を差し出した兵士たちにピントを合わせることによって描きます。私たちが今見つめるべきは、やはり周りの人たちです。

イエス様が十字架につけられたことは35節にさらりと示されるだけです。マタイはその十字架の下でイエス様の衣服を分け合い、見張りをしていた兵士たちを描きます。そして37節では「これはユダヤ人の王である」という罪状書きが紹介されます。「ユダヤ人の王」という表現は、ユダヤ人の解放者を名乗ったものに対する皮肉です。イエス様は「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されたとき、肯定も否定もされませんでした。イエス様が宣べ伝えておられた「神の国」は、地上のローマとかユダヤとかという意味の「国家」とは違うものだったからです。しかし尋問したローマの総督にも周りの人々にも理解できませんでしたので、イエス様が「ユダヤ人の王」を自称したと見なし、この罪状書きを掲げました。イエス様は国家転覆を企てたわけではありませんが、そのような囚人(強盗=政治的反乱者)の筆頭として、いわれのないかどによって十字架につけられ、罵りを受けておられたのです。

イエス様はローマ人ばかりでなく、ユダヤ人からも罵られました。ユダヤ人らはイエス様を罵ることで、主なる神様を罵ってしまいました。左右につけられた強盗たちも、イエス様を罵りました。今、イエス様に味方はいません。弟子たちは裏切り、逃げ、後をついてきた群衆も嘆き悲しむばかりでどうしようもありません。他の人たちはイエス様を罵るばかりです。昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続きます。イエス様が神様にさえ見捨てられ、文字通り光を失った3時間です。ここで満を持して、マタイの示すフォーカスがイエス様に向けられます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」。イエス様の心からの叫びです。イエス様はもう、神様を「父」とは呼ばれません。父でもなく子でもない、関係が絶たれたことを悟った祈りです。しかしイエス様はこの期に及んでも、神様にしがみつきます。神様から離れていればこんなことにはならなかった…とは後悔なさいませんでした。神様に従いとおされたのです。このようなイエス様が、なぜ神様に見捨てられなければならないのでしょうか。それは(たとえ些細でも神様に反抗してしまうという)私たち人間の罪の故です。その罪は、私たちに罪人として神様と引き離されて滅びなければならないという重い刑罰をもたらします。その罪に気づかされ、悔い改めたいと願うすべての人たちが神様と関係を持てるように、滅びという刑罰を代わりに背負われたのが救い主イエス・キリストです。

しかし心からの絶叫さえも人々に理解されぬまま、イエス様は息を引き取りました。

私たちにイエス様の死の意味・イエス様の絶叫の重みが十分に理解できるでしょうか。それを考えると苦しくて、そこから逃げ出したくなるのではないでしょうか。しかし神様の御業には、ローマの百人隊長に「本当に、この人は神の子だった」と告白させる力があります。十字架で死なれたのが誰か・その死が何のための死なのかを悟らせるのです。私たちも神様の御力によって、今週、特にイエス様の十字架の死と自分自身の罪とに思いを巡らして歩みましょう。自分の力で、それらに向き合うことは無理です。神様の御力に私たちの歩みを委ねましょう。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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