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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年4月24日「愛がますます豊かになるように」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章9-11節

 

あなたは今、愛に満ち足りているでしょうか…。「愛に満たされたい ―愛したい、愛されたい―」という思いが、人間には備わっているのではないかと思います。「愛なんて絵空事だ」と思っている人でも、かつては愛すること・愛されることに喜びをもっていたのではないかと思います。また、愛に欠けて空しい部分を何かで埋めたいという思いがあるのではないでしょうか。

「フィリピの信徒への手紙」は、国家や社会の反逆者と見なされたイエス・キリストの教えを宣べ伝えていたために投獄されてしまっていたパウロが、フィリピという町にいるキリスト者たちに獄中から書き送った手紙です。パウロはその手紙の冒頭で「あなたがた(フィリピの信徒たち)の愛がますます豊かになるように」と祈ります。

フィリピの信徒たちはどのような愛で満たされるのが望ましいのでしょうか。パウロは「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになるように(9節)」と祈ります。愛が豊かになるプロセスには、認識力と理解力を身に着けるということがあります。〔自動車運転の例え:飛び出してきた物体を認識し、それが歩行者だと見抜き、自分と他者の命を守るように備える(伊藤の場合は眼鏡をかける)ことが、運転における愛ではないでしょうか。〕

運転における愛が「命を守るための愛」だとすれば、ここでパウロが祈り願う愛は「本当に重要なことを見分けるための愛」です。本当に重要なことを見分けることができなければ、いろんな情報に惑わされ、騙されてしまう危険があります。「知る力と見抜く力」は、原語(ギリシア語)の意味を掴みながら訳すなら「神認識、悟り、宗教的なことも含む広い洞察力」くらいの意味です。私たちの生活の中では、宗教色が隠された宗教的情報がたくさん飛び交っています。テレビをつけると、占いやパワースポット巡りなどの番組が多いことに驚かされます。日本人は宗教と聞くと警戒するので、宗教という言葉を避けて「パワースポット巡りです」「幸せになるためのセミナーです」など巧みな言葉で人々を誘います。すべての情報が騙す意図で発せられたわけではないにせよ、「どの情報が本当の意味でその人を愛で満たし、幸せに生かすのか?」ということについては見分ける力が必要です。それが見分けられなければ、あらゆる情報に惑わされたり、騙されたり、悪くすれば自分も他者も傷つけてしまう危険さえあります。

パウロが祈り願うことはもう一つあります。「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者と(10節)」なるようにということです。「キリストの日」は、ご在天のキリストが世界を救うために再臨される日のことです。その日キリストは、人間一人一人を「清い(光に透かしてしみも汚れもない)者」で「とがめられるところのない(他の布に色や汚れが移らないほどきれいな)者」かを判定されます。キリスト者でも、「自分は完全に清い」と言える人はいません。心の中に抱えるものがあります。キリストの目がふし穴でない限り、キリストの日に「清い」と判定されるはずがありません。しかしパウロは(当然ながら!)「キリストの目がふし穴でありますように」とは祈りません。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け(11節)」るようにと祈るのです。義というのは「正しい」という意味ですが、人間と神様が正しい関係(例えるなら、神様との養子縁組関係)にあるということを指します。人間と神様との関係は、人間が神様を見失い、神様の前から迷い出て、神様に背いてしまった結果、正しくなくなりました。残念ながら人間には「(宗教的な・神に関する)知る力と見抜く力」がないので、人間の力で神様との正しい関係を回復することはできません。しかし、人間と神様を和解させる、キリストの「義の実」が、私たちには恵みとして豊かに与えられます。私たちがそれを豊かに受ければ、神様が人を自分の子の一人として愛し、人が神様を親として愛するという正しい関係が回復します。正しい関係に回復されると、その人はキリストの日に「清い」と判定されます。確かに今は汚れも色移りの危険もありますが、でも、園部分は、キリストの日に備えて神様御自身がきれいに真っ白にしてくださいます。

愛が豊かになり、愛で満たされた人々はどうなるのでしょうか。「愛でお腹いっぱいになって、めでたしめでたし」で終わるのではありません。神の栄光と誉れとをたたえることができる(11節)ようになります。神の栄光と誉れとをたたえることは、神様に創造された人間本来の・歪みのない・正しい生き方です(コリントの信徒への手紙10:31「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」)。この人間本来の生き方のためには、先述の「義の実」の恵みが欠かせません。「義の実」を溢れるほどに受けると、「ああこうしたら本来の生き方ができるんだな」と理解する「知る力と見抜く力」が身に着きます。そして、どなたがまことの神様なのか・何が正しい生き方なのかを見分ける愛が溢れることによって、人間本来の生き方ができるようになるのです。

神様は、どうしたら愛に満たされるのかが解らなかった、知る力も見抜く力もない私たちにも解るようにと、この場所にキリスト教会を建設して、今日、「ここにおいで」と招いてくださいました。そしてさらに、聖書の箇所を示して、「ここを読んで、パウロの祈りを味わってね」と導いてくださいました。神様が私たちにアプローチをしてくださったのです。このアプローチに応答して、イエス・キリストを救い主として信じて、イエス・キリストによって与えられる義の実を溢れるほどに受けましょう。そうして、私たちの愛がますます豊かになり、神様のご栄光と誉れとを生活全体で表してゆくために、まことの神様との正しい関係でいられるよう、祈りましょう。


田無教会 定住伝道者 伊藤 築志

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