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日本キリスト改革派 田無教会

2022年5月22日「イエスこそ、神だ!」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章6-11節

 

「イエスこそ、神だ!」ということを、あなたはご存じでしょうか。「キリスト教会は、イエスを神として礼拝している」ということなら、ご存じかもしれません。イエスは、どのような意味で「神」なのでしょうか。そして、イエスが神であることと私たちとの間には、いったいどのような関係があるのでしょうか。その問いの答えが、2章6節から11節のところに凝縮されています。

6節。パウロは前置きなしに「キリストは神の身分である」と言いますが、それは手紙の受信者であるフィリピの信徒たちが既にそのことを承知しているからです。ヨハネ1:1、1:14に書かれている通り、人間として生まれて生活した「言」こそイエス・キリストなのだと信じるのが、教会の信仰の基礎です。聖書が説く「神」は、全世界を造られた、人間には全く手の及ばないご存在です。6節は、「キリストは、すべてを超越しておられる神の身分でありながらも、その立場にいることにこだわりを持たなかった」ということを意味します。

7節。キリストが人間と同じ者になられたというのは、(王子とこじきの物語の王子のように)神が人間として生活してみたいと思ったというような軽い話ではありません。キリストは神の身分そのものを完全に手放したのです。神の身分を剥奪されたわけでもありません。自発的に、世界に下って、人々に仕える奴隷の身分となったのです。人間の姿=誰にも神だとは認めてもらえない姿になりました。人間イエスは、優れた人物が出るはずもないようなナザレという田舎村(ヨハネ1:46)に育ちました。「イエス」という名も平凡な名です。本来は神であるはずのイエスは、どちらかというと低い身分の一般人と見なされながら地上に生きました。

8節。しかし平凡なイエスは十字架刑に処されます。(十字架刑は、最も不名誉な処刑方法。)なぜなら彼が一貫して神様に従順であったからです。(聖書の神は「三位一体」。キリストが神の身分を捨ててもなお、父なる神・聖霊なる神の神格が手の届かない高みにおられます。)イエスが説く、人間に手の届かない神様の存在は、世の人々の反感を買いました。権力者だけでなく、一般人もイエスを処刑することで溜飲を下げました。人間のエゴがイエスを死に至らしめたのです。エゴは、神にかたどって(創世記1:27)極めて良いものとして(同1:31)創造された人間の本質ではなく、人間が神様に背いたこと(罪)によって平安を失った人間が手放せなくなったものです。人間は罪ゆえに死ぬ者となりました(ローマ6:23)。しかし、死ぬ必要のない神の身分であったイエスが人間となり、罪人の代わりに死んだのです。

9節。神は死の苦しみのうちにあったキリストを解放され、復活させられました。そして「主」という、神としての、人間に崇められるべき最高の名をお与えになりました。キリストは本来神の身分であられたので、名実ともに神の身分に引き上げられたのです。

10-11節。こうして、天上・地上・地下の…つまりあらゆるところにいるすべての被造物が、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と歌います。それまで偽りの神々を崇めていた人々は、キリストを仰ぎ見る時、それが間違いだったと気づきます。イエスこそが、自分が人生をかけて仕えるべき神であると腑に落ちるのです。文字通り全ての舌が・全ての人が「イエス・キリストは主である」という事実に気づかされ、そのように歌う日が、必ず来ます。またそのように歌う時、すべての口は同時に、イエスを引き上げた父なる神をもたたえることになります。

「イエス・キリストは主である」「イエスこそ、神だ!」という言葉は、キリスト教会の喜びの声です。神様に極めて良いものとして造られた人間は、残念ながら神様に背き、神様との関係が壊れて、エゴを手放せなくなってしまいました。しかしイエス・キリストが、十字架の死によって、人間と神様との関係を回復へと導いてくださいましたので、キリストが主だと知った人は、自分を縛っていたエゴを手放すことができるようになります。そして罪の報酬としての死もキリストに肩代わりしてもらい、死からも解放されました。教会はキリストを十字架につけてしまった罪を悔い改めつつ、キリストの愛ゆえに死から解放された喜びをもって、頑なな利己心や虚栄心を捨てて、キリストに礼拝をささげます。礼拝というのは、主であるキリストに仕えることの現れです。イエス・キリストを礼拝することは、イエス様に身代わりとなっていただいて救われた者たちの、最大で最優先の生きる目的なのです。今日初めて、「キリストがあなたの救い主ですよ」とか「キリストを礼拝することが人間の生きる目的ですよ」と聞いて、それがどういう意味か腑に落ちないという方もいらっしゃると思います。しかし、気づきは神様の側から与えられます。神様の導きによって、全世界のすべての人々の舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神を讃える日が、必ず来ます。それが、極めて良く造られた人間の本来の生き方だからです。今日の聖書の言葉通りに、必ず、ここにいる一人一人が聖書の教えに納得できる日が来るのだと期待して、その日が早く来ることを祈り願います。



田無教会 定住伝道者 伊藤 築志

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