検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年6月5日「真理を知る朝」ペンテコステ礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録2章1~42節

 

キリスト教会において「聖霊降臨日」とも呼ばれるペンテコステは、2:1-4に記されている通り、天に昇られたイエス様のもとから聖霊が降られたことを記念する主日です。今朝の礼拝では、少し長いですが4:1-42に基づいて説教いたします。それは、聖霊が降られた後、何が起こったのか・そのことが私たちにどのように関係するのかをもきょう、心に留めたいからです。

ペンテコステ当日までの経緯を少しおさらいしておきます。イエス様は過越祭の週の金曜日に十字架上で死なれ、3日目の日曜日にご復活なさいました。イエス様はその後40日にわたって、使徒たちの前にお出ましになり、神の御国についてお教えになりました。また、その中で、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい(1:4)」とお命じなりました。「父の約束されたもの」とは、聖霊(「別の弁護者」)が永遠に共にいてくださるという約束(ヨハネ14:16)です。使徒たちはそのご命令を守り、エルサレムにおいて、ほかの弟子たちと共に心を合わせて熱心に祈り続けました(1:14)。また、欠員のあった十二弟子の補充としてマティアを選出し、仲間に加えました(1:26)。彼らは聖霊を待つ間、祈りの共同体と組織を整え、後に教会となる器を整えていたのです。

さて、過越祭から50日目にあたる五旬祭(ペンテコステ)の日(その日はイエス様のご復活からも50日目です)にも、弟子たちはエルサレムに留まって、ある家に集まって熱心に祈っていました。すると、そこに聖霊が降られ、集まっていた弟子たち一人一人の上に留まられました。聖霊は人間の目には見えませんが、この時には「風のような音」「炎のような舌」が共に現れたので、人間にもわかる形で聖霊が降られたのです。そして、弟子たちは聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で、主なる神様の偉大な御業(2:11)について話しだしました。

五旬祭というのはもともとはユダヤ教の祝祭であり、各地から信心深いユダヤ人たちがエルサレムの神殿にお参りに来ていました。なので、聖霊降臨の物音を聞いて集まって来た人たちの中には、東西南北・遠くから近くから・また生粋のユダヤ人もユダヤ教に改宗したひともいました。彼らの故郷の言葉はそれぞれ違いましたが、皆それぞれ弟子たちの口から自分の故郷の言葉を聞いたのです。しかし、彼らはそれが神様の偉大な御業によるものだとは悟れず、あっけにとられ・驚き・とまどっただけでした。ある人たちはこの事態を「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っている」という嘲りをこめた仮説を立てて説明しようとしました。信心深いユダヤ人であっても、誰一人、神様の御業によってこの出来事が起こったとは思わなかったのです。

そこでペトロが立ち上がり、説教をします。教会はそれまで、共に祈る共同体でしたが、聖霊が降った今は、説教による福音宣教という新たな働きを為すようになりました。ペトロの説教は、ヨエル書3章の御言葉を引用するところから始まります。それは、この出来事が酒の影響ではなく、聖霊が注がれたことによる神の御業であることを説明する説教でした。続いてペトロは、50日前に十字架にかかって死に、3日目に復活したイエスこそが旧約聖書に示されていた救い主であったのだということを、これまた旧約聖書(ダビデが詠んだ詩編)の御言葉を引用することによって説き明かします。ペトロの説教は、「信心深い人々」が「新しいぶどう酒」のような安直な理由をでっちあげたのとは対照的に、ただただ御言葉に基づいた説き明かしだったのです。この説き明かしは、聖霊の御力によってなせる業に他なりません。

ペトロはこの説教を「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(2:36)」と言って締めくくります。「信心深い」聴衆は、神が主としメシアとなさったイエス・キリストの処刑に同意しむしろ望んだ自らの過ちを、この言葉によって目の当たりにしたのです。

五旬祭の朝9時、ペトロの説教によって真理を知った聴衆は、心を刺し貫かれたようになりました。後悔の念にさいなまれて、そのままでは不安で生きることができないほどに動揺したのでしょう。聖霊によるペトロの説教は、聴衆の心を刺し貫きます。ペトロは彼らに「悔い改めなさい」と勧めます。イエスを殺しても罪の意識がなかったそれまでの姿勢から180度転回し、以後は罪を認めてイエス様に従いなさいという勧めです。ペトロは続けて「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい(1:38)」と勧めます。そうすれば、賜物として聖霊を受け、聖霊がその人の上にも留まるからです。聖霊が留まってくだされば、その人は本当に悔い改めることができ、イエス様に従う新しい人生を歩み始められます。聖霊がその人の上に留まるという約束は、信心深いユダヤ人にだけでなく、「遠くにいる人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも与えられている(1:39)」約束です。今、日本にいて礼拝に集う私たちも、神様からのこの招きを受けています。私たちは神様から離れようとする自分の思いや行いを上回る神様の御力によって、この礼拝に集められているのです。だから、私たちも聖霊を受ける約束を頂いています。私たちはこれから礼拝式を終えて日常生活に戻りますが、その中でも悔い改めてイエス様に従い続けるためには、常に聖霊が共にいてくださらなければなりません。心が刺し貫かれた今、自分の力で生き抜くことではなく、聖霊の御力によって新しい人生を生きる決断が求められます。洗礼を受けたい方は、ぜひ伝道者や長老にご相談ください。

ペンテコステの朝まで、共同体の人数は120人ほど(1:15)でしたが、その日のうちに洗礼を受けた3,000人が新たに仲間に加わりました。ふつうならパニックになるでしょうが、洗礼を受けた3,000人それぞれにも聖霊が留まっていたので、各々が神様の秩序に従い(1:42)、教会としてまとまりました。教会は、聖霊に満たされてキリストの福音を発信する共同体として、この日、新たなスタートを切りました。

田無教会も、ペンテコステに活動を本格的に開始した初代教会の枝分かれです。2,000年前のペンテコステの聖霊降臨の影響は、今の私たちの礼拝生活にも及んでいます。今日の礼拝も、聖霊の御力によるものです。聖霊は音や視覚と伴わないため、ペンテコステは地味なお祭りかもしれませんが、もとは風の音・各国語の声・3,000人以上の仲間たちによる、教会にとって最も賑やかな日の記念なのです。私たちのこれからの営みも、聖霊に満たされ、キリストの福音を宣べ伝える営みとして用いられるように、共に祈りましょう。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

閲覧数:16回