聖書箇所:ヨハネによる福音書 4章15-26節
(先週の続き。)井戸の脇でイエス様と話していたサマリア人の女性は、イエス様が聖霊について「生きた水(流れている活力ある水)」にたとえられたことが分からないまま、「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください(15節)」と願いました。彼女は、「生きた水」を、文字通りの物質的な水のことだと思い、肉体の渇きや水汲みの重労働から解放されるためにそう願ったのです。しかし、勘違いしながらでも、彼女がここで「ください」と願ったことは重要なことでした。なぜなら、この後に続くイエス様との会話を通して、彼女には実際に聖霊が与えられていくことになったからです。
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16節でイエス様が「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われたのは、この女性が自分の罪を直視するためのきっかけを作るためです。彼女は過去に5人の男性との結婚に失敗し、現在は夫でない(将来添い遂げるわけではない)男性と連れ添っていました。おそらくこのことで周囲からの信頼はなく、人目を避ける生活をしなければなりませんでした(だから、人がいない時間帯を狙って井戸に来ていたのです)。また、現在連れ添っている男性も添い遂げる覚悟のない中途半端な関係の男性でした。結婚の失敗、周囲との不和、そして交際相手との中途半端な関係に心を痛めていたであろう女性は、その痛みについて神様による癒しを求めず、自分の力に頼って耐え抜こうとしていました。そのことが、この女性の過ちであり、罪でありました。しかし、女性が、イエス様の「あなたの夫をここに呼んで来なさい」という問いに対して率直に「わたしには夫はいません」と答えたことは、彼女にこれまでの自分自身の罪を直視させるきっかけとなりました。
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イエス様がこの女性の身の上をご存じだったのは、子なる神であるイエス様が神的な洞察力をお持ちだったからです。この女性は、その身の上を言い当てたイエス様のことを、その洞察力から「預言者」であると考えるに至りました。
彼女には、目の前の人が預言者であるならば、ユダヤ人とサマリア人との間で長年議論されてきた「礼拝をささげるのにふさわしい場所はどこか」という問題に対する答えを持つのではないかと思われました。同じ神様を礼拝するにも、ユダヤ人はエルサレム神殿で、サマリア人はゲリジム山で、それぞれいけにえをささげて礼拝していたからです。
どうしてそのような礼拝場所に関する混乱が起きていたかと言えば、サマリア人が聖書の一部分(五書)だけしか受け入れていなかったからです。イエス様は「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ(22節)」とおっしゃって、ユダヤ人の礼拝のほうがより優れていると表明されます。とはいえ、ユダヤ人の礼拝も最高に正しい礼拝だというわけではありません。
イエス様は「あなたがた(サマリア人)が、この山(ゲリジム山)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(21節)」とおっしゃいます。それは、場所へのこだわりがなくなる、全く新しい形の「まことの礼拝」をささげる時が来るということです。さらにイエス様は「まことの礼拝をする者たちが、霊(聖霊によって潤された魂)と真理(父なる神様の御心)をもって父を礼拝する時が来る」とおっしゃいます。まことの礼拝者は、霊によって礼拝するのですから、場所やいけにえなど物質的なものに礼拝の根拠を置きません。また真理によって礼拝するのですから、神様の愛を知り、独り子として与えられたイエス様のみに頼って礼拝をささげます。
まことの礼拝者は、物質的な事柄にこだわる以前に、霊的な、魂の領域の事柄にもっと気を遣わなければなりません。魂の一部を隠しながら・罪をごまかしながら礼拝に臨むわけにはいかず、自分の罪を(サマリアの女性のように)直視しなければなりません。神様に対して罪があるということは本来なら神様に礼拝をささげる資格がないということですが、神様はむしろ霊と真理をもって礼拝する者を求めておられます。神様はまことの礼拝をささげられるように、人の罪を赦し、礼拝者として整えます。そのために世に来られたのが救い主イエス・キリストです。
自分の力に頼って自分の罪を直視しようとすることも、神様の御力に頼らないという意味で、罪です。しかし、サマリアの女性がそうしてもらったように、聖霊を与えてくださるイエス様が、自分の罪を直視できるように促してくださいます。
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この女性の知識は不完全だったかもしれませんが、彼女は救い主(キリストと呼ばれるメシア)を待ち望んでいました(25節)。それに対してイエス様が「それは、あなたと話をしているこのわたしである(26節)」と宣言されたとき、彼女は、目の前のこの方(イエス様)こそ、まことの礼拝の根拠であるのだと知りました。彼女はメシアが誰であるかを知ったとき、霊と真理をもって礼拝することができるように、聖霊が与えられ、救われたのです。
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イエス様はまことの礼拝をささげる時について「今がその時である(23節)」とおっしゃいました。それは、救い主であられるイエス様が、既に地上に来てくださっていたからです。
2022年の私たちの礼拝も全く同じことがあてはまります。礼拝において最も大事なこともまた、霊と真理をもって、つまり自分の罪を悔い改めてイエス様だけに根拠を置いて礼拝することです。礼拝式の場所や形式は秩序ある礼拝・安心できる礼拝のために大切な要素ですが、それら物質的なことが一番大事なのではありません。霊と真理をもって礼拝するための最善を模索していく必要があるのだと思います。また、「礼拝」は主日礼拝式だけではありません。私たちのこれからの1週間の生活は、聖霊によって、罪を悔い改めイエス様に依り頼むことをもって神様と共にいる営みとされてゆきます。
田無教会 伊藤 築志 定住伝道者
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