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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年7月17日「刈り入れの喜び」主日礼拝

  • 聖書箇所:ヨハネによる福音書4章27-38節

 

(先週のおさらい。)イエス様は、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(24節)」とお教えになりました。神様を礼拝する私たちは、自分自身の神様に対する罪を悔い改めて、かつ救い主であられるイエス様だけに根拠を置いて、神様を礼拝しなければなりません。

町の人たちとの交流を避けて生活していた一人のサマリア人の女性がいました。彼女は、イエス様との対話を通して、イエス様こそが救い主であると信じるに至りました。するとその行動が一変し、28-29節のとおり、彼女は町の中で白昼堂々、目立つように、救い主を紹介して回るようになりました。

時間が前後しますが、町へ行っていた弟子たちが戻ってくると(27節)、彼らはイエス様がサマリア人の女性と話しておられたので驚きました。「ユダヤ人の」「男性」であるイエス様が「サマリア人の」「女性と」公衆の面前で会話するということは非常識なことだったからです。しかし弟子たちは、イエス様に「何をこの人と話しておられるのですか」とは聞きませんでした。なぜなら、イエス様がしばしば常識を超えた行動を取られるお方だからです。

イエス様は、常に神様の御心に適うことを行うお方です。全てを、常識やしきたりや御自身の(人間的な)利益になびかずに行われます。(その最たるものは、苦難を避けずに十字架にかかられたことです。)神様よりも自分の利益を優先することは、神様に対する失礼な「罪」です。イエス様は罪(や常識)から全く自由に、神様の御心を行うことができる唯一のお方です。

31節。女性が町に行ってしまうと、弟子たちはイエス様に食事をとるようにと勧めます。しかし、イエス様は勧められた食事を口にしません。代わりに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある(32節)」とお答えになり、弟子たちを混乱させます。

イエス様は父なる神様に遣わされて地上に来られたお方です。「遣わされた」ということは、遂行すべき任務があるということです。イエス様はご自身の任務を「食べ物」にお喩(たと)えになったのでした。「食べ物」は、おいしく食べて楽しむものであると同時に、文字通り生きるための糧でもあります。「お遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる」という「食べ物(=任務)」こそ、イエス様にとっては喜びをもって生きるということであったのです。

父なる神様の「御心」とは、世を愛しておられる神様(参考 ヨハ3:16)と人間とが愛し合っていつも一緒にいること(=永遠の命)です。イエス様の任務は、人間に永遠の命を得させるために聖霊を与えることです。

今、聖霊を与えられた女性が町に帰り、救い主を宣べ伝えています。町の人たちがイエス様のところに向かって来ます。イエス様には、彼らに永遠の命を与えるという任務が控えています。

しかしイエス様の「食べ物(=任務)」を、弟子たちは知りません。弟子たちは、ユダヤ人と宗教的に敵対していたサマリアでは、(ユダヤ人の救い主である)イエス様が働かれることはないと思っていたのです。彼らは、イエス様が任務に就かれるのは未来(ガリラヤ到着後)であると考えていました。

そこでイエス様は35節において、「刈り入れ」という喩えを用いてお教えになりました。通常の農業では、種まきから刈り入れまでは何か月もかかります。しかし「刈り入れまであと4か月もある」と言って畑を見ていないうちに、畑の作物が実っていたらどうでしょうか。イエス様は理論や計算やカレンダーだけでなく、目を上げて、実際の畑そのものを見よとおっしゃいます。弟子たちが目を上げると、そこにはシカルの町から向かってくるサマリア人たち(30節)がいます。サマリアでも、イエス様の宣教の業が実を結びます。サマリアにも、聖霊を与えるというイエス様の食べ物(=任務)があるのです。

「刈り入れ」とは、食べ物を収穫することです。刈り入れをしてはじめて、作物を食べることができるようになります。「刈り入れ」は、既に実ったものを相手にするので、刈り入れる人は確実に報酬を受け取れます。福音宣教における「刈り入れ」(=訪ねて来られた求道者をお迎えすること)もまた、喜びに満ちた業です。

「刈り入れ」のためには、その前に「種まき」という農作業が必要です。種まきをする人は、何か月後かの収穫を期待して作業します。福音宣教における「種まき」(=「イエス・キリストは主である」と公に宣べること)は、福音宣教の「刈り入れ」を期待する、重要な働きです。

イエス様が前提とされている福音宣教の「種まき」「刈り入れ」は分業制です(37-38節)。弟子たちが知らないうちに、イエス様が種をまいておられました。その労苦を知らない弟子たちにも、刈り入れのために遣わされて、刈り入れの喜びを味わう権利が与えられます。

田無教会は今年、宣教開始65年目を迎えています。ある意味で私たちは、ここでの開拓伝道の労苦を知らずに、この教会での礼拝の恵みにあずかっています。

私たちが享受するのは礼拝の喜びだけではありません。ここには刈り入れの喜びもあります。イエス様は、「目を上げて畑を見るがよい」と促しておられます。目を上げて、教会の周りを見てみましょう。そこには私たちの知らなかった主の民が、収穫を待っています。先人が蒔いた種、イエス様が田無教会に蒔かせてくださった種が、この教会の周辺でも色づいています。来週は伝道礼拝を行いますが、私たちの周りで色づいて収穫を待っている主の民を、愛をもって迎えることができるように、祈って備えましょう。そして、礼拝式に来る人をイエス様から聖霊を受けるように整える、刈り入れの業に励んでまいりましょう。 

田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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