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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年7月24日「本当の救い主に出会う」主日礼拝

  • 聖書箇所:ヨハネによる福音書4章39-42節

 

「本当の救い主に出会う」(ヨハネによる福音書4:39-42)

39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」


宗教の名を騙(かた)って人権を侵害する「カルト教団」に関する話題が新聞の紙面を賑わせています。信者の、カルト教団の支配からの脱出は大変だと言われますが、その理由は「信者が教団の教えに強く依存しているから」です。信者は魂の渇きを潤したいと願い、深みにはまっていきます。しかしカルトにはまると生活は崩壊し、魂の渇きがいよいよ深刻になります。その悪循環から脱するためには、他の「魂を潤す手段」を受け入れる必要があります。正統的キリスト教会は、「魂を潤す唯一の手段」として、イエス・キリストを提示します。残念ながら他の手段では、その効果は一時的です。イエス・キリストにしか、人間の魂を永遠に潤すことができないのです。

キリスト教の「神」は、人間の思想が生み出した存在ではありません。神は人間の考えが及ばないほど遥か彼方、世界の外側におられ、全世界を覆っておられます。それでいて、一人一人の内に留まってくださる神でもあられます。内から外から、人間を愛される神なのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章16節)

子なる神イエス・キリストだけが、魂の渇きを永遠に潤す救い主です。主イエスはある時、魂の渇きを覚えていた女性に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(14節)」と話しかけました。「それ(救い主)は、あなたと話しているこのわたしである(26節)」と彼女が聞いてそれを信じた時、それまで先祖伝来の宗教によっても潤されることのなかった彼女の魂が、永遠に潤されました。

彼女は、主イエスこそが救い主だと信じるやいなや、町の中で、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません(29節)」と触れ回りました。すると、その町の多くのサマリア人は主イエスを救い主と信じましたが、それはまだ、その女性の言葉によって信じていただけのことでした(39節)。

女性の言葉を聞いて主イエスに会いに来た町の人たちは、主イエスと直接出会うと、女性の言葉によらずとも主イエスを救い主と信じるようになりました(42節)。

これまでの宗教を離れて新しい救い主を受け入れるのはかなり勇気のいることです。それは、ある意味でこれまでの自分を否定的・批判的に見なければならないことだからです。カルト宗教の怖いところは、そのプロセスを強制的に行うところだと思います。入信者のこれまでの人生を否定して、恐怖によって徹底的に追い込みます。そうして魂を干上がらせてから、さも救うかのようにして教義を教え込み、依存させていきます。しかし主イエスの言葉は、魂を強制的に干上がらせて渇きに気づかせる言葉なのではなく、自発的に渇きと向き合うように促す言葉です。サマリア人たちは主イエスに、自分たちのところに留まるようにと頼みました(40節)。彼らは主イエスの言葉を聞くことを、自発的に願ったのです。主イエスの言葉を聞いた人は、自分のこれまでの罪(神に対する反発)に向き合い、悔い改めるようになります。しかしそれは強制されてのことではありません。主イエスは語る相手を愛し、受け入れながら、その人の内にある罪に気づかせるのです。主イエスは、一人一人が自分の罪に向き合うことができるよう、聖霊によって人々の魂を潤すことから、その説得を始められます。

数十年前、教会に集まっていた子どもたちのうち、大人になっても教会に通っている人は少数です。教会に留まる子どもと離れる子どもとの違いは何でしょうか。(親が信者の、いわゆる「二世」かどうかではありません。)その違いは、「主イエスと出会ったかどうか」にあります。子どもたちは、親や教会の大人から「イエス様の話」を聞いて、素朴な信仰を持ちます。成長して心の渇きを自覚するようになると、聞きかじりの「イエス様の話」では満足しなくなり、自分であれこれ模索するようになります。その模索の中で、自らが直接、本当の救い主である主イエスと出会うと、その人も本当の意味で主イエスを信じるようになります。

子どもだけではありません。大人も同様に、自分も主イエスに直接出会ったのだと分かると、主イエスを本当の救い主として信じるようになります。最初は、牧師を通して主イエスを知るだけ(知的な理解の段階)かもしれません。しかし魂の潤しを求めて主イエスに祈る時、その祈りは、すでに自分の内におられた主イエスとの人格的なコミュニケーションとなります。そのコミュニケーションにおいて、人は、主イエスとの出会いを経験するのです。それは他の誰をも介さない、直接の出会いです。主イエスと直接出会うと、主イエスの話をもっと聞くようになり、自分の罪に直面するように促されます。教会は、初めて来た人が救い主イエスに出会えるようにサポートする宗教団体であり、救い主に出会う前に罪を指摘し人生を否定するカルトとは違います。

主イエスはあなたと出会う救い主です。主イエスとの出会いは普通の人との出会いとは違う感覚なので分かりづらいですし、その実感も徐々に現れるものかもしれません。しかし、主イエスがあなたを再び礼拝式に招かれる時、あなたはその出会いを実感するはずです。「また礼拝式に行ってみたい」と思ったときは、どうぞ遠慮なくお越しください。  (定住伝道者 伊藤築志)

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