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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年7月3日「命を与える「生きた水」」主日礼拝

  • 聖書箇所:ヨハネによる福音書4章1-14節

 

普段はフィリピの信徒への手紙からの連続講解説教ですが、今月は少しそこから離れて、ヨハネ4章の御言葉を共に読みたいと思います。福音書に示されたイエス様の活動を覚える時、私たちが出会うべきは「教え」でなく「イエス様そのかた」であることを特に覚えるものです。

今、イエス様は弟子たちと共に、ユダヤ教で有力な「ファリサイ派」との衝突を避けるために、ユダヤからガリラヤへの旅を続けておられます。(位置関係は聖書の最後にある地図6番をご参照ください。)ユダヤからガリラヤへの最短ルートは「サマリア地方」を通るルートですが、ユダヤ人とサマリア人は宗教的な事情で反目し合っていたために最短ルートで旅をするユダヤ人は少なく、東に大回りするルートが一般的だったようです。しかし4節には「しかし、サマリアを通らねばならなかった(通りたい/通るべきだ)」と記されています。イエス様は何らかの意図をもって、敢えて、大回りせずにサマリアを通られたのです。

やむにやまれぬイエス様の旅は過酷な旅でした。中東の乾燥地域の正午ごろ、太陽がギラギラ照りつける中でイエス様はとうとう井戸のそばに座り込んでしまわれました。井戸からは20分ほど歩けばシカルの町があり、弟子たちはそこに食べ物を買いに行ったようです(8節)が、イエス様はお一人で座り込んでおられました。

そんな折、一人の女性が町から井戸へ水を汲みに来ました。一般的に水汲みのような重労働は日が落ちた夕方ごろに行われたようで、その時間帯は井戸端が賑わっていたことでしょう。しかしこの女性は賑わう時間帯を避けて、最も厳しい時間帯に水汲みに来たのです。イエス様はその女性に「水を飲ませてください」と話しかけられました。

先ほども申しましたように、ユダヤ人とサマリア人は反目し合い、交際しません。9節の「交際」という言葉は新約聖書原文のギリシア語で「一緒に(スン)・用いる(クラオマイ)」という単語の複合語であり、ユダヤ人がサマリア人の道具を「一緒に・用いて」水を飲むことは非常識でした。また、外で男性が女性に話しかけるのも非常識でした。イエス様は喉が渇いて切迫感をもって女性に声をかけたのですが、それは非常識なことでした。非常識であることを建前にして、女性は水を汲んであげませんでした。イエス様との交わりを避けているかのようです。

それに対してイエス様は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう(10節)」とおっしゃいました。イエス様は、この女性が「神の賜物を知らない」「目の前の旅人が誰かを知らない」ことをご指摘になったのです。

神が下さった賜物とは、独り子イエス様のことです(ヨハネ3:16)。イエス様こそ、神様の愛ゆえに、いつでも人間が神様と共にいる(永遠の命)ために世に送られた救い主です。この女性は、神様が世を愛されるお方だとは知りませんでした。また、目の前の旅人こそが救い主だとも知りませんでした。サマリア人の宗教は、旧約聖書の最初の五書(創・出・レビ・民・申)以外を用いませんので、そこに書かれている神様による豊かな救いの約束を知りません。そうなるとどうしても、生きている神様との交わりでなく、五書に書かれている律法への従順だけに意識が偏ります。そのような背景を持つサマリアの女性も、神様の愛をよく知りませんでした。

もし彼女がそれらを知っていたら、彼女からイエス様に頼み、イエス様は彼女に生きた水を与えたことでしょう。「生きた水」とは、こんこんと湧き出て流れている水を指す言葉です。

しかしここでイエス様がおっしゃっているのは、井戸の(物質的な)水ではなく、聖霊のことです。イエス様は井戸の水と「生きた水」との違いを13-14節で説明なさいます。イエス様が与える水は、その人の内で泉となり決して渇かない、永遠の命に至る水です。つまり、いつでも天におられるまことの神様と共に生きることができる、聖霊のことです。聖霊が潤すのは喉ではなくて、渇いた魂です。その潤しは、物質の水による潤しではなく、神様の愛による潤しです。

このサマリアの女性は、魂の渇きを覚えていました。彼女は一時的に家庭を持ててもその結婚生活は不安定で(18節)、そのことで社会から孤立していました。彼女はあらゆる人間関係における愛に渇いていたのです。イエス様は非常識にも彼女に話しかけられましたが、その非常識さは、愛に渇く彼女に神様の愛がもたらされるという非常識さでもあったのです。

もし神様が律法遵守に厳しいだけのお方なら、そのお方と一緒にいることは居心地の悪いことかもしれません。しかしいつでも神様と共にいる「永遠の命」は、居心地の良い神の御国に入る恵みです(エゼ47:8-9、黙22:2-4参照)。救い主イエス様が与えてくださる「生きた水」は、一時的な愛ではなく、決して渇かない神様の愛をもたらすものなのです。

湧き出る「生きた水」には、動きがあります。渇いて動けない人を癒し、潤し、再び立ち上がらせる活力がそこにはあります。井戸の水が疲れた旅人を回復させるように、イエス様が与えてくださる「生きた水」は渇いた魂を神の愛で永遠に潤します。神様はその愛を、聖書の読み方に偏りがあったサマリア人にも注がれます。イエス様はそのために、敢えてサマリアを通られたのです。2022年の日本にいる私たちも同じ愛が注がれ、かつては真理を知らずに生きていたのに、教会に招かれ、聖霊を受け、神様がいつも共にいてくださることを知りました。そのような希望に満たされて生きられる「永遠の命に至る水」を、私たちはイエス様から頂きました。私たちはこの1週間、渇いた魂を潤す神様の愛の力を受け続けます。そして、これからイエス様に出会う方々が、イエス様に「生きた水」を願うことができるよう、宣教の業を続けて参りましょう。


田無教会 伊藤 築志 定住伝道者

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