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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年8月14日「剣をさやに納めなさい」主日礼拝

  • 聖書箇所:マタイによる福音書26章47-56節

 

77年前の8月、日本は戦争を終えました。そもそもなぜ日本が戦争を始めたかというと、(他にもいろいろな思惑があったでしょうが、)大義名分としては「東アジアの安定のため」でした。日本のキリスト教会には、その大義名分に乗っかって、積極的に戦争に協力したという過ちがあります。8月15日を控え、私たちは戦争協力に突き進んだ教会の暴走にも思いを馳せなければなりません。今日は聖書の御言葉から、戦争と平和について、そして私たちが戦争に対してどのように行動すべきなのかを教えられたいと願っています。

聖書には、戦争に関する記述が数多くあります。旧約聖書の戦争に関する記述からは、神の民イスラエルが戦争を通して、神様に従うことの重要性を学んでいったということがわかります。

新約聖書では戦争そのものに関する言及は減りますが、武器(ローマ13:4)、軍隊・兵士(マタイ8:9)などの存在を認める記述があります。従って、聖書が、戦争そのものや戦力そのものを「神の律法に背くものだ」と言って退けているとは言えません。

しかし同時に、その戦争や戦力というものを、いかように用いるのかということが問題となります。パウロが書いた一コリ10:23によれば、「すべてのことが許されている」としても、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のです。つまり、戦争や戦力が神様の前に合法的であっても、その使用がいついかなる時でも益になるわけではありません。どんな戦争も、神様の御栄光を現わすためになされなければ、全く意味がありません(一コリ10:24)。ことに、戦争の場合には、そこには攻撃があり、殺人があり、破壊があります。この点から、戦争は十戒(特に第六戒、第八戒)に触れ、神様の御栄光をかえって曇らせることになります。

では、どうして聖書には戦争を肯定するかのような記述があるのでしょうか。ローマ13:4「(権威者が剣を帯びるのは)神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いる(ため)」だということに、それを考えるヒントがあります。神様は悪行を見過ごしにせず、悪をやめさせるために悪人を打つという業をなさることがあります。神様は権威者を立て、彼にその業を行わせるために武器を持たせることがあるのです。権威者は神様の代理としてその業を行うことで、神様の御栄光を現わします。神の民イスラエルも、神様の代理として敵を打つことで、神様の御栄光を現わしました。戦争や戦力もまた、神様の御栄光を現わすために用いられるときには聖書において肯定されるのです。

しかし、神様の御指示に先回りする戦争・武器の使用はなりません。その例が、マタイ26:47-56に記されています。イエス様が十字架にかけられる前の晩、武装した大勢の群衆がイエス様を逮捕しに来ました。その逮捕劇はまるで強盗を捕らえに来たかのような、武器と、熱気と、殺気に満ちたものでした。その逮捕劇の中、イエス様の弟子の一人が剣を抜いて、武装した群衆の一人に打ちかかりました。大勢の群衆を前に、その一撃は小さな反撃に過ぎませんでしたが、イエス様を守るためのとっさの行動だったと思われます。

しかしイエス様は52節で「剣をさやに納めなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」とおっしゃって、その弟子を咎めます。イエス様は、父なる神様にお願いして、目の前の群衆を凌駕する戦力(53節「十二軍団以上の天使」)を送ってもらうことも可能であったのに、そうされませんでした。イエス様は、聖書に書かれている預言の成就のためなら、たとえ命を守るためでもそうすべきでないとお考えになったのです。それなのに、弟子が剣を抜くべきではありません。

剣を抜いた弟子は、すべてを支配しておられる神様の御力でなく、自らの剣の威力に頼ったのです。しかし、剣をとる者は皆、剣で滅びます。武器の威力を敵にかざす時、敵の戦力がこちらに向かうからです。神様でなく武器に頼って物事を解決しようとすると、かえって破滅を招きます。そうでなくて、私たちは、すべてを支配しておられる神様にのみ頼るべきです。

武装した勢力に対して剣をとらないことは、相手のなすがままにされることではありません。剣ではなく神様の御心によって状況が打開されるように祈ることです。なぜなら神様は、武器によらずに戦争を終わらせることもできるお方だからです(イザヤ2:4)。さらにイエス様は弟子たちに、無抵抗の原則もお教えになりました(マタイ5:39)。右の頬を打たれたときに左の頬を向けるのは、敵意の往復を断ち切るという強い意志による、言わば「積極的な無抵抗」の現れです。キリスト者の積極的な無抵抗の生き方は、戦力による目的の達成ではなく、神様の御力による目的の達成を祈り求める生き方につながります。神様の御力が行使され、天使の軍団が作戦を開始するまでは、自分の剣を抜くべきではありません。じっとこらえるのです。

戦争を知らない私が、「必要な時には武器をとらなければならない」という戦場からの声に反論することは、自分の言葉ではできないように思います。しかし聖書を紐解く時には、やはりそうじゃないんだと言わざるを得ません。聖書は戦争を全面的に否定していないし、武器や軍隊や兵士を合法的だと見なしています。しかし、その戦争が、人間の利益のためのものであったり、その戦争の大義名分として、神の名や「平和のため」という黄金の言葉が安易に用いられているならば、その戦争は否定されなければなりません。

「平和」という言葉を持ち出すのなら、平和の君であるイエス様の言葉に耳を傾けねばなりません。イエス様は「剣をさやに納めなさい」とおっしゃいました。神様は、今は、戦争によってではなく、人間が平和をつくり出すこと(マタイ5:9)で御栄光を現わされようとしています。私たちは人間の力では平和を実現することができませんが、神様の御力によって、剣をさやに納め続けつつ、武器を鋤や鍬に打ち直すことができるほどの平和が実現するように祈りを合わせましょう。


(定住伝道者 伊藤築志)

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