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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年8月28日「神は弱さを用いる」主日礼拝

  • 聖書箇所:コリントの信徒への手紙二 12章1-10説

 

人間社会(競争社会)の中で求められることは、「自分の強みを前面に出しつつ、弱みを抑え込む」ことではないかと思われます。ところで、2000年前にパウロという人物がいました。彼はイエス・キリストの教えを宣べ伝える宣教者でしたが、その働きを「自分の弱さを誇る」という人間社会とは異なる姿勢によって為しました。なぜ彼にはそのようなことができたのでしょうか。

パウロは「十四年前」に、「第三の天(=天国)」を垣間見るという素晴らしい神秘体験を経験しました。2節で彼は、あたかも他人がこの神秘体験を経験したかのように表現していますが、実際にはパウロ自身がこの神秘体験を経験したのです。当時、パウロと対抗していた「偽教師たち」がいましたが、彼らは自分の神秘体験をアピールし、そのことで人々の注目を集めて、独自の教えを広めていました。いわゆる新興宗教の教祖が空中浮遊や「神からの新しい啓示」をアピールして、それによって布教するのと似ているかもしれません。信者は、神秘体験をした人物を「力ある指導者」として担ぎ上げ、その人の発言を絶対的なものとして扱います。

パウロの神秘体験は偽教師たちのものよりもはるかに素晴らしく、また具体的時期を示せるほどはっきりとした、信憑性の高いことでした。もし彼が、かの素晴らしい神秘体験を我が事として語ったならば、皆がパウロに注目し、彼を称賛したでしょう。これがパウロの「強み」です。

しかしパウロはその強みを我が事としては語らず、「誇っても無益(1節)」「誇るまい(6節)」と言います。それはパウロが神秘体験のあまりの素晴らしさのゆえに過大評価や称賛をされないようにするためです。パウロが見た楽園は、神様だけがほめ讃えられる素晴らしい楽園でした。パウロは、自分の強みを誇らない宣教によって、地上でも神様がほめ讃えられるようにと働いたのです。

とは言えパウロにも欲があるので、神様がほめ讃えられることよりも自分自身が称賛されることを願う恐れがあります。なので、彼には「強み」が与えられると同時に、「弱み」として「一つのとげ(=病?)」が与えられました(7節)。パウロはこのとげを「サタン(=パウロを神から引き離す者)から送られた使い」と表現しました。彼はとげの痛みを感じるたびに、神様から離れて、宣教の働きをやめてしまおうかと考えたことでしょう。

しかしパウロは、宣教の働きをやめてしまう前に、三度主に願いました(8節)。主なる神様は、サタンよりも権威のあるお方です。パウロは繰り返し祈る中で、三度目に、神様からの返答をいただきました。その返答とは「わたしの恵みはあなたに十分である(9節)」というものでした。神様は、とげが刺さったままでもパウロが宣教の働きを続けられるとおっしゃったのです。

それどころか神様は「力は弱さの中でこそ十分に発揮される(9節)」ともおっしゃいました。とげの痛みは宣教の妨げでないどころか、宣教の働きのために役立つ、必要なものなのです。

ですからパウロは自身の「強み」を誇らないばかりか、「弱さ」を誇りさえします(9節後半)。イエス・キリストは、神でありながら人間として生まれ、十字架で死なれた方です。十字架の死は人間として最も無力な死です。しかしイエス様は三日目に復活なさいました。イエス様の究極の弱さの中に、神様の御力が十分に発揮されたからです。自分の弱さの内に、そのような神様の力が発揮されると信じるがゆえに、パウロは大いに喜んで自分の弱さを誇るのです。

パウロは、「とげ」以外にも、様々な困難に直面しました(10節)。しかし彼は困難に打ち克つ自分の強さを誇らず、それらの弱さを神様の力が発揮されるための器であるかのように見なして誇ります。なぜなら、パウロは弱いときにこそ強い(10節)からです。「弱みが強みに逆転する」とは、人間社会の論理としてはあり得ないことです。しかし神様は、死者を復活させ、弱みを強みに変える、私たちの創造をはるかに超えたお方です。パウロは本気で、「私は弱いときにこそ強い」と信じて、自分の弱さをこそ誇るという姿勢をとったのです。

サタンは、私たちの弱さ・弱みを巧みに利用して、私たちを落胆させようと仕掛けてきます。しかし私たちの弱さは、神様の御力が発揮され、私たちに希望をもたらすためにあるのです。弱さを用いて楽園に向かう希望をもたらす神様の御力を信じ、自分の抱えている弱さを大いに喜んで歩みましょう。                                       (定住伝道者 伊藤築志)

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