検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2022年9月4日「広い心」主日礼拝

  • 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章2-7説

 

5節の「広い心」というのは、言い換えれば「寛容な心」ということです。2:3の表現を借りるならば、“へりくだった”イエス様のような心であると言えます。反対に「狭い心」というものがあるとすれば、それは「高慢な心」のことでしょう。高慢な心は、相手の意見を言い負かして、自分の考えを押し通そうとする態度となって、現れてきます。今、私たちの周りには、「高慢な心」が溢れていないでしょうか。人間関係のトラブルは、主張がぶつかり合うところで起こります。「私はあいつよりも正しいのに、あいつは私の正しさをわかってくれない」という高慢な心が、国際関係・政界・町内会・職場・学校・家庭…そして教会にも入り込んでいます。

フィリピの教会に、エボディアとシンティケという二人の奉仕者がいましたが、彼女らはどうやら教会内で対立していたようです。パウロは事態を重く見て、教会への手紙の中で和解を勧めました。彼女らが名指しされているのは、それだけこの問題が深刻だったからでしょう。パウロはどちらかに肩入れすることなく、両者を同列に呼んで、両者に同じこと ―主において同じ思いを抱くこと(2節)― を懇願します。「主において」というのは、この手紙に何度も出てくる「主にあって」「主によって」と同じ表現で、「主の内にいる/主と結び合わされている」という意味合いがあります。両者の対立は彼女たちそれぞれの高慢な心の結果です。彼女たちはそれぞれに、「自分の正しさ」と「相手の間違い」とを見つめていました。パウロはその二人に対して、よく話し合って歩み寄りなさいと勧めたのではなく、「イエス様に結ばれて同じ思いを抱きなさい」と勧めました。キリスト者は、イエス様のおられる天のゴールを見つめてひた走ります(3:14)。パウロはここでは、エボディアとシンティケが一緒にイエス様を見つめ、一緒に走ることを勧めているのです。

対立する二者には、仲裁者が必要です。パウロは「真実の協力者」に、彼女たちを支えるよう願います(3節)。「真実の協力者」は単数形ですが、教会という一つの群れへの協力の呼びかけかもしれません。教会が二人の対立に巻き込まれずに、中立な立場で二人ともを支えるように、パウロは願います。なぜならエボディアもシンティケも、教会を惑わす偽預言者でなく、命の書(=天の御国の市民台帳)に名が記された、天の御国の市民だからです。そんなキリスト者でも、教会の中でのトラブルの火種になり得ます。教会は彼女たちを排除せずに、かえって彼女たちを支えてあげるべきなのです。

獄中で苦しめられているはずのパウロが、4節で「主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と勧めています。なぜパウロは喜べるのでしょうか。それは彼が、彼自身の状況にではなく、イエス・キリストの福音が広がっているかどうかということに、喜びの基準を置いているからです(2:17-18)。

パウロはフィリピ教会にも、同じ基準で「主において喜びなさい」と呼びかけます。イエス様を基準にして喜ぶときには、イエス様に結び合わされていることがとても大切です。主に結び合わされているということは、イエス様の死と復活に結び合わされて、イエス様の生き方に倣っていくという方向性を持つことです。イエス様は思い煩わず(=心の中をあれこれ分割せず)(マタイ6:25)、「広い心/寛容な心」でおられた方です。5節の「広い心」をさらに言い換えると、イエス様に結び合わされて、イエス様に向っている心ということになります。

思い煩いから離れ、広い心を持ち続けることは難しいことだと思われるかもしれません。しかし、思い煩わないための対処法があります。それは、「何事につけ、感謝を込めて祈りをささげ」ること(6節)です。思い煩うとき、心は狭い部屋のように分割され、それぞれが地上のあれこれのことでいっぱいになっています。そのときに口から出る言葉は、利己的な言葉・批判・愚痴ばかりでしょう。祈りも同じことになります。しかし、感謝を込めて祈りをささげる人は、祈る時に、神さまが下さった恵みを思い出します。私たちに与えられた救い主イエス様を意識して祈ります。「何事につけ、感謝を込めて祈りをささげ」ると、祈りもイエス様に結び合わされ、自分のための祈りでなく、御国の実現を求める祈りへと変化します。その時祈りは地上のことから解放され、小部屋に分割されていた心はイエス様だけに向かい、イエス様に結び合わされた広い心となります。思い煩いから解放されるのです。

イエス様に結び合わされた祈りの結果は、「あらゆる人知を超える神の平和が、祈る者の心と考えとをキリスト・イエスによって(結び合わせて!)防衛する(7節)」ということです。天の御国の平和・平安は、イエス様に結び合わされた祈りの内容を防衛する、私たちの理性・創造を超えた楯です。その楯を私たちは見ることができませんが、神様を信じて神様の平安に逃げ込むことにより、私たちは守ってもらうことができます。

教会にとって厳しい世の中で、私たちは教会の営みを続けています。その中で、自分自身と地上の多くのことばかりに目が向いてしまい、焦り、思い煩ってしまうことがあります。その思い煩いにサタンがつけこんできて、教会内に混乱をもたらす危険があります。定住伝道者も、エボディアやシンティケ同様にトラブルを起こす危険があります。私の「高慢な心」が、イエス様に結び合わされて「広い心」にされていくように、感謝を込めて祈り求めます。

教会は、人間の思い煩いに支配されかねない、弱い器です。二人の信心深いキリスト者によって内部崩壊の危機にさらされたというのが、教会の実態です。しかし、神様は、このような弱さを抱えた教会を用いて、地上に福音を宣べ伝えようとされています。私たちは罪の残る弱い存在ですが、私たちは、神様の平安の中で、イエス様を証しして歩みましょう。

 (定住伝道者 伊藤築志)

閲覧数:13回