聖書箇所:イザヤ書39章1-8節
祈ること(神様との交わり)には、生きる喜びを実感させる(38章)ことのほかに、信仰者の歩みを神様の御心から逸れないよう導くという機能もあります。39章は祈りを疎かにした結果過ちを犯してしまったヒゼキヤ王の姿を描き、祈りつつ生きることの大切さを教えます。
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39章の冒頭にも「そのころ」というあいまいな時代設定があります。実は ①ヒゼキヤ王が死の病から回復した(38章)年代と、 ②メロダク・バルアダンがバビロンの王位に就いていた(1節)年代とにはズレがあります。時系列的には②の方が先かもしれません。伊藤も、39章に描かれるヒゼキヤ王が(38章の信仰体験の後にしては)不信仰に過ぎると思えることから、39章の事柄は38節よりも昔の出来事だったろうと思います。
とにかく、バビロン王メロダク・バルアダンが、見舞いにかこつけてユダ王国のヒゼキヤ王のもとに手紙と贈り物とを送って来ました(1節)。ユダもバビロンも、大国アッシリアの支配を受けて苦しんでいました。両国にとってアッシリアは共通の敵ですが、アッシリアに対抗しうる勢力であるバビロンからユダへの連帯のしるしは、ヒゼキヤ王にとって心強く、誇らしいことでした。
手紙の内容は明らかではありませんが、そこには恐らく「連帯して、一緒にアッシリアに対抗しよう。作戦を立てるために、武器や資材を開示してくれ」などと書かれていたのでしょう。バビロンからの手紙と使者とを喜んだヒゼキヤ王は、2節のとおり国中のすべてを使者らに見せました。彼は機密情報をすべて見せてしまうほどに、バビロンとの同盟を頼りにしてしまいました。
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そんな折、預言者イザヤがヒゼキヤ王のところに来て、事実確認をしました。ヒゼキヤ王は「彼らは遠い国、バビロンから私の所に来ました(3節。傍点部は原文による補足)」と返答しました。3-4節のヒゼキヤ王の返答には、「わざわざ(1,500kmの道のりを)来てくれた使者たちにすべてを見せたことは正しいことだ」という自信がみなぎるようです。
これらの事実確認を終えると、イザヤは5-7節の預言を告げました。ヒゼキヤ王が使者たちに見せたもの(その大部分は「先祖が今日まで蓄えてきた」長年の遺産)がことごとく運び去られ、何も残らなくなる日が来るというのです。さらに、ヒゼキヤ王から生まれた息子たちの中には、…宦官(王の私生活に仕えるため去勢された高官)にされる者もあるというのです。同盟相手のバビロンと友好的な関係を築くどころか、かえってひどい扱いをされるということです。
預言はヒゼキヤ王の過ちを指摘しています。万軍の主である神様を信頼せず、バビロンとの軍事同盟に頼ってしまったことが、彼の過ちです。彼は、バビロンを頼って良いのか否かを神様に問うことを怠りました。神様とのコミュニケーションを省いて、言わば勝手な判断をしたために、神様への信頼を弱めてバビロンを受け入れてしまったのです。
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預言によって過ちを指摘されても、ヒゼキヤ王は事の重大さを理解しませんでした(8節)。彼がイザヤの告げた預言を「ありがたい」と受け入れたのは表面的な次元です。彼が万軍の主の言葉によって悔い改めることはありませんでした。なぜなら、彼は自分の在世中のことにしか興味を持っていなかったからです。
確かに、預言はヒゼキヤ王の後の世代がひどい扱いをされるという預言であり、ヒゼキヤ王が害を受けるというものではありません。(実際に120年後、バビロンによってユダ王国は決定的に崩壊し、王の子孫たちがバビロンへ連れ去られました(バビロン捕囚)。40章以下は、バビロン捕囚世代を慰める預言です。あいまいな時代設定で時系列を逆転させてでも39章がここに配置されたのは、39章がバビロン捕囚の原因を説明するからでしょう。)ヒゼキヤ王は後の世代に自分の過ちのツケを払わせようとしています。彼はそれでいいと考えており、目先の事しか考えていません。捕囚民がヒゼキヤ王の話を聞けば、憤り、彼を批判したでしょうが、それは彼らがその後の歴史を知っているからです。ヒゼキヤ王には、そんな視点がありませんでした。彼が見据えていたのはせいぜい数十年後の自分の在世中の未来です。神様はこれまで数百年… いや数千年に亘って主の民を愛しておられました。神様と共に歩んだ民の歴史は何千年規模です。しかしヒゼキヤ王はそれを顧みず、ほんの数十年の事しか視野に入れていませんでした。それは彼が、不信仰にも、神様との交わりを疎かにしてしまっていたからです。
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神様は創造から終末に至るまでの歴史のすべてを支配しておられるお方です。そのご支配は、人間と共に御国を建設なさるという変わらないご計画に基づいています。私たちが今日礼拝に集えたのは、各々が神様との交わりの中で神様のご支配に身を委ね、従った結果です。
そのような神様のご支配に反発し、御心から離れるのが、聖書における「罪」です。人間は堕落によって罪に傾いているため、神様との交わりを怠ったまま自分で判断するとき必ず罪を犯します。39章のヒゼキヤ王の場合もそうでした。さらに神様との交わりを疎かにしたヒゼキヤ王は、非常に長い歴史を通して人間を愛しておられる神様の視点を理解できず、自分の在世中だけしのげればよいとの考えのまま、自分の罪を悔い改めることもしませんでした。
私たちも同じ過ちを犯す危険性があります。祈りが止み、御言葉に真剣に向き合わずにいると、神様が歴史全体を通して実行なさっているご計画 ―御国建設と、それに伴う救いのご計画― を見失います。私たちの生活において、様々な意志決定の場面があります。私たちは神様の永遠のご計画の中で生かされているのですから、それを見渡す視野で、全ての決定をなす必要があります。私たちの寿命は長くとも120年ほどですから、自分の力ではそれ以上長くの視野を持ち得ません。ここで、神様との祈りと御言葉による、礼拝での交わりが必要となります。田無教会も、信仰によって、終末まで続く主の民を視野に入れながら、礼拝共同体としての歩みを続けてゆきましょう。定期会員総会の決定のためにお祈りください。
(牧師 伊藤築志)
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