聖書箇所:イザヤ書38章1-22節
イザヤ書38章は大きく2つの部分に分けられます。前半(1~8節)は事の次第を物語る部分。また後半(9節以降)は神様の救いを経験したヒゼキヤ王による賛美の歌です。
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前半の物語部分。6節に「アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」と記されているので、1節「そのころ」は、36~37章でユダ王国が大国アッシリアに包囲されていた頃を指すと考えられます。王国がアッシリアに包囲されているという外交的緊張のさなか、ヒゼキヤ王は死の病にかかり、臨終の床にありました。預言者イザヤは「遺言をしなさい」と告げますが(1節)、ヒゼキヤ王は「人生の半ば(=働き盛りで、国を守らねばならない責任ある時期。10節)」に死ぬということを受け入れられなかったので、遺言をする前に、「顔を壁に向けて、主に」命乞いをして祈りました(2節)。ヒゼキヤ王の祈りの内容は自分の功績に頼る、神様の御心に適うものではなかったものの、涙を流して大いに泣きながらの、真剣な祈りでした(3節)。
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内容はどうあれ、その真剣な祈りは、神様に聞かれました。祈りを聞いた神様はイザヤを通して啓示をお与えになりました(5~6節)。ヒゼキヤ王の命乞いを聞いた神様が下される恵みには、王の寿命を15年延ばすことだけではなく、「アッシリア王の手からあなたとこの都(=ユダ王国の都エルサレム)を救い出す」という約束も含まれていました。都に関するこの約束が、36章~37章での王国の救いの物語につながったのです。
ヒゼキヤ王に対する神様の約束には、「日時計の影を10度後戻りさせる」というしるしが伴っていました(8節)。このとき、太陽が(東から西ではなく)西から東に戻るという明確な奇跡によって、神様の全能性が示されました。ヒゼキヤ王は、イザヤが語った預言と共に起こったこの奇跡によって、自らの奇跡的な回復への希望を持ち、王国が救われることをも確信しました。
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後半の歌の部分。(説教者は、ヒゼキヤの立場で語ります。“私”は、ヒゼキヤの事です。)
臨終の床に伏せっていた“私”は、働き盛りの脂の乗った時期に、神様によって命が奪われ、人生が解体されてしまうかのような状況に直面しました。「天幕(=テント。12節)」とは撤去が簡単な住居です。“私”の命は、まるでテントの柱のように引き抜かれ、撤去されてしまうかのようでした。そして“私”の体は、まるで獅子に嚙み砕かれるように、病に蝕まれていました。
12節と13節に繰り返した通り、“私”の人生を引き抜き、撤去し、その骨を砕いて息の根を止めようとしたのは神様(あなた)でした。“私”は、自分が置かれた状況を嘆きました。“私”の力はどんどんと失われ、嘆きの声はつばめや鶴のようなすすり泣き、鳩のような呻(うめ)き声になってゆきました。最後の力を振り絞って、“私”は神様に助けを求めました(14節)。その呻きが神様に届くかわかりません。
しかしそんな呻き声を上げながら、“私”は一つの事実に気付きました。今、“私”は神様に祈っているじゃないか。それって命ある者にしかできないはずのことじゃないか、と(命ある者のみが神様に感謝する。19節)。陰府(よみ)(神様から切り離された、死者の場所)では、神様を礼拝し、神様のまこと(誠実)に期待することができない。なのに、救いを求めて祈り、救いの啓示を聞いたのだから、“私”は今、陰府ではなく、神様との関係の中にいるのだ!と実感したのです。“私”がそう実感できたのは、神様が“私”の魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにし、罪(=神様に対する無礼)をすべて後ろ(=視界の外)に投げ捨ててくださったのだと(17節)わかったからです。“私”と神様との間には隔てがなく、“私”は神様との非常に良好な関係の中にいます。
“私”は神様との良好な関係の中にいるのであって、陰府にいるのではない。つまり、生きているんだ!と実感したとき、“私”の奥底から10節~20節の歌が湧いてきました。歌の締めくくり20節「主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり主の神殿で、わたしの音楽を共に奏でるでしょう」。臨終の床の嘆きから救われた“私”は「神殿で、主の民の共同体と共に、“私”の賛美を奏でたい。心を一つにして神様を礼拝しながら、神様に与えられた命を全うしたい」という思いが湧いてきたのです。
21節と22節は歌ではなく、実際に“私”の肉体が回復したときの次第です。神様の救いにより、“私”は、干しいちじくの塗り薬程度の軽い治療で回復しました(21節)。健康を取り戻した“私”は、回復するや否や、神殿に上って賛美の歌をささげることを心待ちにしました。(22節)
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21世紀の私たちも、それぞれ、死を意識しながら地上の人生を歩むことがあります。死を意識するような危機的状況のとき、人はとっさに神的存在に祈ります。その祈りが、聖書が証しする神様への祈りであれば、ヒゼキヤ王同様に、祈りによって「生きてる!という実感」が与えられます。なぜなら神様こそ、命そのものであられるからです。イエス様は、死を打ち負かし、復活された、命そのものです(ヨハネ11:25)から、キリスト者は肉体の死を経てもなお、神様との関係が切れず、陰府に下ることなく、生きます。キリスト教礼拝は、まさに、命を実感する営みです。
神様との交わりの中で「生きてる!という実感」を得た人は、命の限り礼拝したいと願うようになります。ヒゼキヤ王とは違い、祈っても寿命が延びなかったという場合でも、その人は神様との交わりに招き入れられていますので、祝福のうちに、地上を去るのです。また、平穏な日々の中では爆発的な「生きてる!という実感」を覚えにくいですが、祈っている時・礼拝している時こそ、「ああ、私いま生きてるんだ」ということを意識してみましょう。祈りの中で、私たちの嘆きは、賛美に変えられます。祈ることは、神様と共に生きる命を実感するための呼吸のようなものです。どんな祈りでも、呼吸ですから、止めずに続けましょう。嘆く人・祈りの言葉が出てこない人・赦しの実感から遠ざかる友がそれぞれにいることでしょう。その隣人と共に教会で賛美の音色を奏でる日が来るよう、隣人を覚えて、執り成し、祈る人生を願います。
(牧師 伊藤築志)
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