聖書箇所:使徒言行録1章9-11節
先週(使徒1:1-8の説教)は、使徒たちがイエス様の復活の証人となって行くための出発点となったイエス様の言葉を聞き取りました。使徒たちは、イエス様が宣教なさっていた「神の国」について誤解しており、自分たちの力では神の国に関する宣教を正しく行うことができませんでした。しかし、イエス様が約束してくださった聖霊を待ち、聖霊の御力を受けた後は、神の国を正しく宣べ伝えることが出来るようになります。後に聖霊の御力を受けた使徒たちの働きは、次の世代以降は、キリスト教会に引き継がれて行きました。
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さて、イエス様が使徒たちに「神の国を宣べ伝える使命」を託されるや否や、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなく(9節)」なりました。
今日の説教題を「キリストの昇天」としました。イエス様の昇天は、キリスト者が地上での生涯を終えた時の「召天」とは全く違います。十字架の死の三日後に復活されたイエス様は、その復活の御体を伴って昇天されたのです。だから、昇天と、キリスト者の魂と体の分離である召天は全く違います。
イエス様は、地上での働きをすべて果たされて、「死なれた」のではありません。生きたまま、昇天されたのです。イエス様が生きたまま昇天されたのには、二つの必要があったからです。 ①父なる神様の右に座し、人間のための執り成しをするため(ローマ8:34参照)。イエス様は、神としての権威をもって世界中を治め、罪の支配下に苦しむ人間に神の怒りが及ばないようにと執り成しておられます。 ②使徒たちに聖霊を送るため(ヨハネ16:5-7参照)。イエス様が地上を去って行かなければ、聖霊が使徒たちに降ることはありません。イエス様は、聖霊を降(くだ)らせ、使徒たちが宣教の働きを担うための道筋を作るために昇天されたのです。
イエス様が昇天されたのは「使徒たちが見ているうちに」の出来事でした。使徒たちはイエス様が雲に覆われて昇天された有様を目撃したので、イエス様の行方不明を悲しみながら聖霊を待つ…ということがありませんでした。「雲」は、旧約時代から、神様のご臨在の象徴でした(出エジプト13:21-22参照)。イエス様は全能の神としての一切の権能をお持ちですし、地上に残るも天上に昇るも自由にできる方ですので、しようと思えばフラっと使徒たちの前からいなくなることもできたはずです。なのに、わざわざ、使徒たちの目の前で、雲に覆われて天に昇られたのは、使徒たちに対するイエス様のご配慮であった、と言えましょう。
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イエス様が離れ去って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていました。イエス様のご配慮があったとはいえ、使徒たちは昇天の出来事に少々あっけに取られてしまったのかもしれません。実はこの使徒たちのうち、ペトロとヨハネとヤコブは既に、今回のイエス様の昇天に似たような出来事を体験していました(ルカ9:28-36参照)。少なくとも使徒たちのうち3人は、雲を伴うイエス様の変貌の出来事を思い出したと思います。そして今回も、雲が去るとイエス様が目の前に再びおみえになるのではないかと期待したかもしれません。しかし今回は、使徒たちがしばらく天を見つめていても、イエス様が再びおみえになることはありませんでした。代わりに、白い服を着た2人の天使がそばに立っていました。
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天使たちはイエス様のUターンを期待して天を見つめていた使徒たちに「なぜ天を見上げて立っているのか」とたしなめました(11節)。天を見上げていることは大切です。イエス様は地上におられた間、しばしば天を仰いで祈られました。天を見上げることは、霊の目をもって神様を見つめることを示す象徴的な姿勢です。しかし、使徒たちがこのとき天を見上げていたのは、肉眼でイエス様のお姿を探すためでした。イエス様は雲によってその御姿が見えなくされたのですから、肉眼でイエス様を捉えることはもうできません。むしろ、天に昇られた天上のイエス様のことは、霊の目をもって ―祈りつつ― 見上げ、肉眼は宣教フィールドである地上をしっかり見据えて、イエス様から託された宣教の使命を果たすことが、使徒たちに期待されている歩みなのです。天使たちは、使徒たちが肉眼でイエス様を捉えようとしていたことをたしなめたのです。
使徒たちをたしなめた後、天使たちは、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と告げました(11節)。イエス様は天にお住まいになるので、当面、地上にUターンされることはありません。だから肉眼で捉えようとする必要はありません。しかし、イエス様は「またおいでになり」ます。イエス様は世をお見捨てになったのではなく、またお戻りになります。天使たちからこのことを知らされた使徒たちは、イエス様が再び来られる(再臨)日に備えて、聖霊を待ち、地の果てにまで至る宣教の業に仕えて行きました。使徒ペトロは「神の日(=イエス様再臨の日)の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです(二ペト3:12)」と教えました。神の日が具体的にいつなのかは秘められていますが、その日を待ち望み、それまでの間は再臨が早まるよう地上で信心深い生活を送ることが、イエス様昇天後の使徒たちの心がけとなりました。
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使徒たちの宣教の働きを引き継いだ教会は、聖書に基づいて使徒たちの心がけを共有する時、地の果てに至る宣教の働きをよりよく展開することができます。ですから、「キリストの昇天」と「再臨」が必ずあることを覚えましょう。イエス様の再臨を使徒たちと同じように待ち望むにあたって私たちは、イエス様が再臨されるのを見ようと目を凝らしている必要はありません。むしろ肉眼・体を地上に向けて、神の国の証人としての働きのために用いるべきです。魂においては天を仰ぎ見つつ、体においては田無教会が置かれたこの地上を見据えながら、これからもイエス様を証しする営みを続けてまいりましょう。
(牧師 伊藤築志)
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