聖書箇所:ヨハネによる福音書11章17-26節
2000年ほど前、イスラエル近郊のベタニア村にマルタ、マリア、ラザロの3きょうだいが住んでいました。彼らは、イエスの親しい友人でした。上記は、そのラザロの死にまつわる話です。
人間は、死から逃れられない存在です。家族、友、そして自らの死を避けては通れません。死は、人生の終わりを強制的にもたらす、抗い難い、人間の限界であるとも言えるでしょう。
一般的に、人間は死に対して無力ですが、イエス・キリストの場合はどうなのでしょうか。今日は、イエス・キリストと死との関係、そしてキリスト教と死との関係についてお話しします。
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ラザロは20代~30代程度の若さと思われますが、病気で死にました。7日に及ぶ喪の4日目も、姉妹であるマルタとマリアのところには、多くの弔問客が彼女たちを慰めに来ていました。特に若者の死は、大きな喪失感をもたらし、集まった人々の目からは無念の涙が溢れます。
その日、イエスも、葬儀が行われているベタニア村へ向かいました。イエス到着の報を受けたマルタは、村はずれまで行ってイエスを出迎え、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と少し恨みがましく言いました。イエスには、死に至る病から回復させる力があり(9:1-7、4:46-53…)マルタもイエスならラザロの病を癒せたと信じていました。しかし、ラザロは4日前に死んでしまいました。さすがにマルタにも、イエスがラザロの息を吹き返せるとは思えませんでした。彼女がイエスに期待したのは、大きな悲しみに対する慰め、喪失感からの救いです。マルタは、イエスにはそれが可能と信じていました(22節)。
イエスはマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言われました。ユダヤ教には「終末の日の死者の復活(ダニエル12:1-2)」の教理があります。多くの弔問客も、同じ言葉で彼女たちを慰めようとしたことでしょう。死に対する無力感に囚われていたマルタは、イエスの言葉を、他の弔問客の慰めの言葉と同じ程度の意味にしか捉えませんでした。
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しかしイエスの言葉「あなたの兄弟は復活する」は、彼女の想像を超えた意味を持ちました。イエスはマルタに「わたしは復活であり、命である」と言われました。(日本語訳ではわかりにくいですが)ここには「私が神だ」という意味を暗に含む言い回しがされています。イエスのこの言葉は、「私こそが神であり、復活であり、命である」というアピールなのです。マルタが期待したのは悲しみからの救いに過ぎませんが、イエスのベタニア訪問の主目的はラザロを起こすことでした(11節)。イエスは、マルタにラザロを復活させると予告するために語られたのです。
人間は死に対して無力ですが、イエス・キリストは、死者を復活させる力を持つ神です。さらに、このイエスを神と信じる者も、キリストの御力によって、死を克服して「死んでも生きる」「決して死ぬことはない」者となれるのです(25-26節)。
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前の3行を聞いて「なるほどそうか」とすぐに腑に落ちる人は多くないでしょう。多くの人は頭が混乱すると思いますが、それは死に対する無力感を抱く人間にとってごく自然な反応です。
聖書において、「人が生きる」ことは、肉体の状態だけのことでなく、「命である神と共にいる」という魂の次元のことも含みます。神(命)と離れた状態は「罪」とも言いますが、魂の次元での「死」(霊的死)です。その状態で肉体が死ぬと、その人の全存在が滅びます。聖書は、すべての人間が罪の状態・霊的死の状態にあると教えます。しかし、罪から解放され、命である神が共にいてくだされば、肉体が息絶えてもその存在はなお神と共におり、生き続けます。命であるキリストには、死者を復活させ、その人が神と共にいられるようにする御力があります。霊的死は人間には判別不可能ですから、以上のことが理解不能・腑に落ちなくても当然です。
イエスは「このことを信じるか」と問われました。理解不能なことは、信じるしかありません。
マルタは「信じております(27節)」という答えに辿り着きました。彼女はイエスを神と信じたとき、イエスによって霊的死から復活させられ、深い悲しみからの救いを得ました。
そして、イエスはラザロの肉体をも復活させられました(44節)。肉体の復活は、人間にも判別可能です。ラザロの一時的な死は、彼が、「キリストが神であり復活であり命である」と人間に示す媒体となるために必要なプロセスでした。
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私たちは生きていますが、死に対する無力感を抱いたり、キリストが神であると理解できなかったりする霊的死の状態にあります。しかし、キリストは、私たちを霊的死から復活させられます。私たちはキリストこそ神だと信じる時、死から解放され、本当に生きるようになります。その後に肉体の死を迎えても、無意味な滅びとはなりません。キリスト教にとっての肉体の死は、もはや滅び・喪失ではありません。愛する者の死を経験する時も、キリスト教では、悲しみに暮れる必要がないのです。なぜならキリスト教こそ、神であり復活であり命である、死を悲しむ者にも神を信じさせて霊的死から復活させるキリストと共に歩む道だからです。
(牧師 伊藤築志)
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