聖書箇所:マルコによる福音書15章42-47節
イースターを来週に控えた今週を「受難週」と言います。この週の金曜日に、イエス様が十字架で死なれたからです。キリスト教会はイースターの前の金曜日を「受難日」と呼び、特にイエス様の十字架上での死を覚えます。イエス様はご自身に罪がないのに、十字架で処刑されました。イエス様が処刑されたのは神であるイエス様よりも自分自身の方を優先的に大事にした人々の罪のゆえです。
聖書は、神様を差し置いて他のもの(自分自身)を大切にすることを「神様に対する罪」だと教えます。その意味では、私たちも例外なく罪人であり、その刑罰のために死なねばなりませんでした。イエス様の死は、私たちの罪を償う、私たちの身代わりとしての死でした。ゆえに、受難日を迎えるにあたっては、自分自身の罪についてもよく知り、覚える必要があります。
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さて、律法には死刑囚の死体を木にかけたまま夜を過ごしてはいけないという教え(申命記21:22-23)がありますので、15時過ぎに息を引きとられたイエス様の遺体は日没(19時頃)までに取り下ろして埋葬される必要がありました。4時間足らずのスピード勝負です。
死刑囚の遺体はローマ帝国政府の管轄下にありましたが、ローマ政府が死刑囚の遺体を丁寧に扱うことはありませんでした。それに対して黙っていられなかったのが「アリマタヤ出身のヨセフ」です。彼は身分の高い(=影響力のある・やり手の)議員で、一定の地位を持っていましたが、彼も「神の国を待ち望む」イエス様の弟子でした。地位のある人物にとって、死刑囚の弟子であることがバレると都合が悪いのですが、彼は「勇気を出して」総督ピラトのところへ行き、イエス様の遺体を渡してくれるようにと願い出ました。
ヨセフが遺体の下げ渡しを願い出ると、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのか不思議に思い」ました。十字架刑は時間がかかる刑罰で、囚人が息を引きとるまで数日かかることもしばしばだったようです。それがイエス様の場合は6時間ほどで異常に早かったので、ピラトは不思議に思ったのです。このとき、遺体を下げ渡す前に囚人の死を確認することは、とても重要なことでした。なぜなら、もし完全に息絶えていない仮死状態でその囚人の仲間に下げ渡してしまったら、手厚い看病で蘇生させてしまう可能性だってあるからです。ピラトは百人隊長にイエス様の死を確認した上で、アリマタヤのヨセフに遺体を下げ渡しました。
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ヨセフはイエス様の遺体を受け取ると、(タイムリミットがある中で、最低限の処置ですが)ローマ政府がしてくれないような丁重さで埋葬しました。ここにはヨセフの心境が書かれていませんので想像するしかありませんが、彼の心が弾んでいたはずはありません。
そして、イエス様が埋葬された墓を、マグダラのマリアとヨセの母マリアとが離れたところから見つめていました。彼女たちの心もまた、イエス様の死によって、沈んでいたことでしょう。
彼・彼女らの心が沈んだのは、イエス様が死んでしまってもはや彼・彼女らと一緒におられなかったからです。イエス様は三日目にご自身が復活すると弟子たちに予告しておられました(8:31)が、復活を期待して忍耐した弟子たちはいませんでした。
なぜイエス様の弟子たちが三日目の復活の希望を生み失ったかと言えば、そこにはサタンの働きがあったからです。サタンの、イエス様の弟子たちをイエス様から・神様の御言葉から引き離そうとする働きに取り込まれると、人間は希望を失い、神様に期待しなくなってしまいます。
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イエス様が死なれ、葬られたのは金曜日(復活の二日前)のことです。神様を礼拝する安息日がまだ来ていないこの日は、サタンがもっとも調子づいていた日です。何しろ、神の子イエスを完全に死に追いやった日だからです。この日は、弟子たちをイエス様から引き離し、死の力がイエス様より強いのだと一時的にでも見せつけた、サタンにとって最高の日でした。
しかし、そのようなサタン絶頂の日であっても、アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体の埋葬のために勇気を出すことができました。死の力・サタンの力は人間の目には強くて大きなものに見えますが、そのような力の支配下においてもなお、イエス様の弟子たちの全員が完全にイエス様から離れたわけではありませんでした。これが、サタンの力・死の力の限界です。サタンであっても、全知全能の神様に導かれたイエス様の弟子を完全にねじ伏せることは、できなかったのです。
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私たちも今、イエス様の十字架での死と、私たち自身の神様に対する取り返しのつかない罪とを覚えつつ、受難週を過ごそうとしています。受難週は同時に、サタンの力・死の力の大きさと、その限界を覚える週でもあります。ですから、受難週でイエス様の死と自らの罪に向き合う時、そして苦しい思いを抱く時にも、私たちを愛して守る全知全能の神様がおられるのだということに心を留めておくことができます。神様が私たちを愛してくださったから、罪のないイエス様が十字架で死んでくださったのです。私たちを救い自由にしてくださる神様が私たちと共にいてくださいます。イエス様の十字架での死が、そのことの証しです。私たちは、イエス様の十字架での死を悲しむあまり、そして自分の罪を悔やむあまり、神様の愛 ―私たちに約束された、神の国を受け継ぐという約束への希望― を見失う危険があります。イエス様が死なれたことを利用して、人間に神様の愛を見失わせるのが、サタンのやり口です。しかし、私たちは神様の愛が示された聖書全体を読みながらイエス様が死なれた十字架を仰ぐとき、「値高く、貴い(イザヤ43:4)」と言ってくださる神様が私たちと一緒にいてくださる恵みをも仰ぎ見るのです。神様の愛が示された御言葉に留まりつつ十字架を仰ぎ見るならば、私たちは、サタンの策略にはまることがありません。受難週にも希望を見失わず、健全にイエス様の苦しみと死と私たち自身の罪とに向き合うことができるのです。
(牧師 伊藤築志)
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