聖書箇所:使徒言行録2章14-21節
4月も終わりです。今月は第1週聖餐式、第2週イースター礼拝・聖餐式、第3週は通常の主日礼拝、第4週洗礼式…と続き、復活のイエス様が確かに生きておられて教会を祝福してくださっていることを特に味わい、喜びました。
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第3週の礼拝では2:1-13の御言葉を学びました。おさらいします。五旬祭(ペンテコステ)の朝、イエス様の弟子たち120人が聖霊に満たされ、「ほかの国々の言葉」で「神の偉大な業」を語りました。集まって来たのは、各地から巡礼のために集まった信心深いユダヤ人でしたが、彼らは都エルサレムで耳馴染みの故郷の言葉で神の偉大な業を聞き、驚き、その内容に興味を覚えました。
聴衆の中には120人をあざけった人々もいました。彼らは「ほかの国々の言葉」で語られた「神の偉大な業」を理解できず、その情景を気味の悪い異常事態に思ったのかもしれません。
しかし聖霊に満たされた120人は、理解できなかった人々を無視しませんでした。ペトロは彼らに向けても「神の偉大な業」を語ったのです(14-36節)。今日はその前半部分です。
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ペトロと、共に立った十一人の使徒たちは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」に、つまりあざけった人もそうでない人も、ここにいない人も、誰にもかれにも知っていただきたい・耳を傾けて欲しいことをこれから述べます。この説教は彼らの必死の訴えです。
彼らが必死なのは、「神の偉大な業」の本質を知ってもらうためです。旧約聖書は「神の偉大な業」として救い主の到来を予告しましたが、「救い主が誰で、いつ来るか」は隠されていました。信心深いユダヤ人たちは、救い主の到来を祈りながら待ちました。ペトロは、この救い主がイエスであるという、旧約聖書で隠されていた最後のひとピースを埋めるために語るのです。
本題を語る前に、ペトロは、今起こった不思議な事態について解説します。それが14-21節です。その導入は、あざけっていた人々の興味をひくために、そのあざけりを穏やかに否定するものでした。「今は朝九時だから(酒を飲むような時間でない)、120人が集団で酔っ払うとは考えにくいことだ」と言うのです。しかしペトロは、このことの説明は掘り下げません。あざける人たちの興味をひけば十分だからです。それで彼は、「この事態は旧約預言の成就である」ということで話を展開します。120人に起こった事態も、神の偉大な業の実現であったのです。
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ペトロは、17-21節で、ヨエル書3:1-5の預言を引用して、今朝の事態がこの預言の成就であるのだと説明します。
ヨエル書3章は、イスラエルの民が罪から聖められて完全に救われる時に関する預言です。ペトロはその時を「終わりの時(日々)」と言います。「(世の)終わり・終末」と言うと、“ノストラダムスの大予言”のような怖いものを想像する人が多いです。神様を離れて終末を思い描くなら、怖くもなるでしょう。しかし、将来を予告するだけの「予言」が神様と無関係な、人間の言葉であるのに対し、預言者の「預言」は神様の言葉です。預言における終末は、ユダヤ人にとって、救い主が到来して神様の救いが完全に成就する日々であり、待ち望むべき日々なのでした。
終わりの日々に、神様は神様の霊をすべての人に(たっぷりと潤沢に)注がれると、性別も年齢もなく皆が預言をするようになります(17節)。「わたしの(=神様に属する)僕(しもべ)や はしため」にも霊が注がれ、彼らも預言をするようになります(18節)。「僕や はしため」は異邦人が多くを占めたようなので、聖霊がユダヤ人以外の改宗者にも注がれることも示唆されます。
それまでは少人数の預言者にしか聖霊がとどまりませんでした。大人数に聖霊がとどまって預言させたという出来事は過去にもありましたが、一時的でした(申命記11:25)。しかしヨエルは待ち望むべき終末には主に属するすべての人に聖霊が注がれると予言したのです。五旬祭の朝の事態は、まさにヨエルが預言した、終末の始まりを示す出来事でした。
19-20節にはおどろおどろしい描写があり、世界滅亡を予感させます。その最終日は「主の偉大な輝かしい日(20節。ヨエル書:主の日、大いなる恐るべき日)」です。その日、人間には耐えられない神様の輝きが燦然と輝きます。滅びずに耐えられる人間は誰もいません。ある例外を除いては…。
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その例外こそ、「主の名を呼び求める者(21節)」です。ですから、預言を信じ、主の名を呼び求める人々にとって、やはり終末は怖くないのです。むしろその日は神様に敵対する悪が滅ぼし尽くされる日なので、待ち遠しいのです。神様による「救い」とは、その時に滅ぼされないで耐えられるようにしていただけることです。
その救いに至る道は、「主(=救い主イエス)の名」を呼び求めることにほかなりません。
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イエス様が送ってくださった聖霊(ルカ24:49)は一時的でなく、今も教会を満たし続けています。これこそ、ヨエルの預言の成就、救いの日々・終りの日々の到来のしるしです。
今や時代は「終わりの日々」です。イエス様の御名を呼び求めるすべての人が、性別も年齢も国籍も関係なく、救われる時代です。この時代をもたらしてくださったがのが、聖霊をお送りくださったイエス様です。ペトロは、すべての人にこのことを知ってほしくて、「わたしの言葉に耳を傾けてください」と呼びかけました。彼は、最終的には、皆が、イエス様のお名前を「主の御名」として呼び求めるようになることを願っています。
「終わりの日々」を生かされている私たちは、「天の御国のリハーサル」である聖餐式・洗礼式・毎週の礼拝式を通して、喜びを受け取ります。イエス様の御名を呼び求める私たちは、「主の偉大な輝かしい日」にはもっと素晴らしい喜びをもって、神礼拝をしますが、 私たちはこの地上でも、恵みとして、天の御国の喜びを先取りして受け取っているのです。
(牧師 伊藤築志)
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