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2023年5月7日「あのイエスが救い主だった」主日礼拝

日本キリスト改革派 田無教会
  • 聖書箇所:使徒言行録2章22-36節

 

ペンテコステの朝、イエス様の弟子たちに聖霊がくだりました。使徒ペトロは説教において、聖霊降臨は旧約聖書(ヨエル書)の預言の成就であり、「終わりの日々(終末)」の到来を告げる出来事であると説きました。終末は、主の名を呼び求める者が救われる時代のことであり、ユダヤ人たちはその到来を待ち望んでいました。

旧約の預言は、終末の到来には救い主メシアの到来が伴うと告げています(たとえばイザヤ書11:1-8)。ペトロの説教は、22節以降、終末の到来という主題から、「では、救い主とは誰で、いつ到来した、どういうお方なのか」という主題に移ります。

その救い主とは(ご存じのとおり)イエス・キリストのことなのですが、ペトロは単刀直入にそう言わず、ゆっくりと論を展開します。ペトロは、奇跡と、不思議な業と、奇跡とを行った有名人「ナザレの人イエス」のことから話を始めます。イエスについて、聴衆に詳しく説明する必要はありません。

ただし、ペトロの論述には大きな特徴があります。それは、イエスを「あなた方が殺してしまった者」として紹介したことです。22節~24節は原文ではひとつながりの長い一文ですが、その主動詞は「(あなたがたが)殺してしまった」です。22節~23節の文は、以下の構造です。

ナザレ人イエスを、

神から遣わされ、神が…(略)…あなたがたに公にされた方を、

神のお定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、引き渡された方を、

…(略)…あなたがたは殺してしまったのです。

ペトロは、「イエスとあなたがた(聴衆)」を「殺された者と殺した者」の関係で説明します。イエス様は、聴衆にとって、決して別世界の存在ではありません。宗教指導者だけでなく、イエス様が十字架につけられるのを黙認し抵抗しなかった全員が、イエス様を殺したのです。

ペトロは、ユダヤ人たちによって殺されたイエス様を、神様が復活させられたのだと宣言します(24節)。イエス様を殺して排除しようとしたユダヤ人たちの思いとは違って、苦難を受けたイエス様を復活させることにこそ、神様の御心があったのです。

イエス様の復活も、かつて預言されていた神様の御心通りのことでした。25節から28節は、ダビデ王が詠んだ復活の希望に関する詩編です。ダビデは死んで墓に葬られたので、27節の「朽ち果てるままにしておかれない」に当てはまりません。では、誰の復活に関する歌なのでしょうか…キリストの復活です。ダビデが将来のキリストについて前もって(1000年前に!)詠えたのは、彼が預言者だったからです(30節、参考サム下7:12-13)。

そういうわけで、神様によって復活させられたイエスこそ、預言されたキリストであると、ペトロは結論付けます。ペトロをはじめとした使徒たちは皆、この復活を目撃した証人です。

そしてイエス様は、40日後に天に上げられ、さらに10日後、聖霊を注いでくださいました。聖霊は「神の霊」であり、父なる神様から受けて注がれる霊です。イエス様は、聖霊を注ぐ権能(神の右腕としての地位)をお受けになったのです。そのことも、ダビデが詠んだ詩編(110編)に預言されていました。ダビデは「天に上げられなかった(=死んで天国へは行っただろうが、神の右にまで引き上げられたわけではない)」ので、これもキリストに関する預言です。

34-35節の預言の内容。キリストが着かれた父なる神様の右の座とは、その敵が滅ぼされて皆足台とされるほど強い権威の座です。キリストは、父なる神様から天と地を治める一切の権能(参考マタ28:18)を授けられた救い主なのです。

イスラエルの全家(=改宗者を含むユダヤ人。父祖イスラエルに与えられた約束を継ぐ者)は、預言を知っていながら、ナザレの人イエスを、キリストと気づかずに殺してしまいました。イエス様を殺した者たちの中には、逮捕されたイエス様を見捨てて逃げ、「そんな人は知らない」と否定したペトロ自身も含まれます。しかし父なる神様は、そのイエス様を、主とし、またメシアとなさったのです(36節)。今やイエス様を、はっきりと、キリストであると証言できます。「主」というのは、神様を意味する畏れ多い御名ですが、ペトロは、預言の成就であるイエス様こそが、この「主」の御名にふさわしい救い主であるということを、大胆に証言したのです。

ペトロの説教によって、聴衆は、あの有名人「ナザレの人イエス」が預言された救い主メシア(キリスト)であったのだとはっきり知りました。そして同時に、気づかずのことであれ、「神様が主としメシアとされた方を殺してしまった」という、神様に対する反逆の罪を指摘されました。

私たちは23節・36節の主語「あなたがた」を「ユダヤ人」と解釈して安穏としていられるでしょうか。未信者の多い日本において、キリストの御名が「天と地の一切の権能」より低く見られることがしばしばあります。当時のユダヤ人たちがイエス様を主と認めなかったことと似てないでしょうか。かつて、そのような日本の空気に同調し、キリストの御名を汚(けが)した覚えがある方もおみえかも知れません。キリスト者であっても、かつてのペトロのように、「うっかり」「口走って」御名を貶める罪を犯し得ます。罪を犯した「あなたがた」の中には、「私(伊藤)」も含まれていると思わざるを得ません。聖書によれば、罪人は、終わりの日々に、救われず滅びます。

しかし、そのような罪人と自覚しながらも、使徒たちがイエス様を救い主として大胆に証言できたことに目を留めましょう。彼らも同じ罪を犯しましたが、聖霊が注がれ、イキイキと、大胆に、喜んで語る者に変わりました。今も教会に聖霊が注がれ、イエス様が教会と共におられることを、私たちは聖餐式を通して味わいます。私たちは罪の刑罰としての滅びに向かう憂鬱な人生から解放され、キリストと共にいる安心の中で生きることができるのです。

(牧師 伊藤築志)

 

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