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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2023年6月11日「あなたを祝福するため、神は…」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録3章17-26節

 

3:11から続く、神殿でのペトロの説教の後半です。前半、ペトロは、足が不自由だった男がイエス・キリストの名によって歩いたことを示しつつ、キリストの復活と、キリストが聖霊において臨在されること、そして男が信仰によっていやされたことを証ししました。

ペトロが証しした救い主イエス・キリストを、かつて、イスラエルの民衆は拒みました(13節、14節)。救い主を拒んだ彼らは、どうなるのでしょうか。ペトロは説教の後半で、彼らにも救われるチャンスがあることのみならず、彼らイスラエルの民衆こそ最初に救われるべきことを説き明かしました。罪を犯したのに真っ先に救われるべきだとは、一体どういうことなのでしょうか。

17節。ペトロは、イスラエルの民衆の罪について、神様に赦していただける余地を説きます。無知ゆえに生じた罪には、赦していただける余地があるからです。律法には、過失によって罪を犯してしまった者の償いについての規定があります(民数記15:27-28)。しかし、故意の罪であれば、それは神様を冒涜することに等しいので、赦していただける余地はありません(同15:30)。主なる神様に逆らってしまっても、それが無知・過失によるのなら、絶望は要りません。

ここにいる田無教会の礼拝者は誰でも、無知ゆえにイエス様を拒んだ経験があると思います。聖書を知る前…。また聖書の御言葉を聞いてからも、うっかり、イエス様を他の何かと比べるなど…。たとえ小さなことでも、そういうことは、イエス様を拒むことに通じます。しかしながら無知やうっかりなら、その罪は赦していただけます。聖書によって2023年の日本にいる私たちにも伝えられたペトロの説教には、私たちにとっても、学ぶべきことがあります。

18節。イスラエルの民衆にとって、イエス様を死に追いやるという罪は無知ゆえの突発的な出来事でしたが、他方でこのことは、神様があらかじめ計画しておられたことでもありました。神様が救い主メシアの苦しみをあらかじめ計画しておられたことは、預言によって明らかです(例えばイザヤ52-53章、詩編22編など)。イエス様が十字架で死なれたことは、預言の成就だったのです。預言の成就は、イスラエルの民衆にとって、神様による救いの時の到来を意味します。ペトロは18節において、民衆が待望していた救いの時の到来が、イエス様の十字架の死によって示されたのだと説いているのです。

「民衆の罪には赦していただける余地があり(17節)、今や救いの時が到来した(18節)。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい(19節)」と、ペトロは強く勧めます。過ちによって犯してしまった罪を心から悔い改めるなら、その罪は消し去られます。

ペトロが強く勧めているのは、民衆が、預言された救いを恵みとして受け取るためには悔い改めが不可欠だからです。その理由が、20-26節の御言葉に概ね3つ記されています。

民衆の悔い改めにより、救いがいよいよ現実になるから(20-21節);民衆が悔い改めれば、終末が「慰めの時・万物が新しくなる時(=救いが完成する時)」として訪れます。それまで天にとどまっていたイエス様がその時、再臨されます。この再臨のイエス様を受け入れるか、拒むか、ということが問われます。この時に及んでイエス様を拒むようなら、それは無知ではなく故意の罪ですから、赦されません。悔い改める者だけが、終末の救いに与(あずか)るのです。預言された終末の救いの完成の時を待ち望むなら、民衆は、悔い改めなければなりません。

イエス様こそ、イスラエルの民が聞き従うべき神様の僕(しもべ)だから(22-24節);神様は「イスラエル民族の中から、モーセのような(神様と身近で親しい)預言者を、イスラエル民族のために立てる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え」とお示しになりました(申18:15)。その後の預言者たちも皆、モーセのような預言者が現れる「今の時」について預言しました。そうしてついに現れた一人の救い主・モーセのような預言者こそ、神様の僕イエス・キリストだったのです。イスラエルの民衆は、このイエス様に耳を傾け、何でも聞き従うべきです。彼らは、イエス様に聞き従う最初のアクションとして、イエス様を拒んだことを悔い改めなければなりません。

イスラエルの民衆が悔い改めることこそ、救いの完成に必要だから(25-26節);預言は最初に、神様が祝福の契約を結ばれたアブラハムの子孫であるイスラエル民族(預言者の子孫・契約の子)に与えられました。「アブラハムから生まれる者(単数形)」として預言された一人の人物こそ、イエス・キリストです。神様の僕も、まず、イスラエル民族のもとに遣わされました。なぜなら「民の一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるため(26節)」です。イスラエルの民衆がその祝福に与ることは「地上のすべての民族」の救いに貢献することです。その救いの実現のために、イスラエルの民衆は、無知ゆえの罪を悔い改めなければなりません。

ここにいる多くの人(恐らく全員)は、血筋の上ではアブラハムにルーツを持ちません。しかし、聖霊によって教会の仲間に加えられたことによって、私たちも、イエス様にあって「預言者の子孫・契約の子」として、聖書の預言と祝福の約束を、他の人たちに先んじて受け取っています。ですから私たちもまた、「慰めの日」の救い・祝福に与るべく、かつての自らの罪を悔い改め、立ち返らなければなりません。悔い改めれば、私たちの罪は赦されます。日々の祈りの中で・礼拝の罪の告白の時間に・さらに必要ならば誰かに罪を告白して一緒に祈ってもらうなどの方法によって、自らの罪を悔い改め、神様に立ち返ることを、強くお勧めします。私たちを救うため、神様が、イエス様を救い主として立てて、その福音を私たちに与えてくださったのですから。私たちが、悔い改めることによって神様の御愛にお応えできるよう、聖霊の導きを祈り願います。

(牧師 伊藤築志)

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