top of page
検索
日本キリスト改革派 田無教会

2020年10月4日「心からなる感謝」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書17章11-19節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

今日の御言葉を通して、イスラエルのらい病人たちとの信仰とサマリア人との信仰の対比を通して、また信心を利得と心得るこの世的な態度に対して、新しい神の国の時代の恵みと力を真に体験する態度を明らかにしなければなりません。

 イエスさま一行がサマリアとガリラヤの堺を通られました。そこで出会った10人のらい病人の中に一人のサマリア人が混ざっていたというのです。サマリア人とは、アッシリア捕囚の後に残されたサマリア市民の残党と、歴代のアッシリア王が送り込んだ異邦人植民との混血人で、預言者ネヘミヤ時代以後、ユダヤ人と決定的に決裂し、サマリア近郊のゲリジム山で礼拝を守ってきたいわば異端の教団です。

 他の9人のユダヤ人のらい病人も、イエスさまに触ってもらうこともなく、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」という御言葉を信じて出かけて行きました。しかし彼らの信仰は、らい病が「癒されたこと」だけで満足する信仰にすぎませんでした。

ただ一人「感謝した」サマリア人こそ、このようなユダヤ民族に対してイエス・キリストの福音に素直に喜びを見出した異邦人信者の予型でした。この一人のサマリア人に、主イエスが言われた最後の言葉が「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」であると言われました。片や9人が戻って来なかったのは、なぜでしょうか。祭司のいるエルサレム神殿までの距離の問題でしょうか。戻って来なかった10人中9人は戻って来て感謝を述べる意思がなかったといわざるをえません。主眼点は、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という結論にあります。

ところで、イスラエル民族は神の度重なる助けに対しても感謝の気持ちを持っていないことを旧約聖書から知ります。却って背反を繰り返しています。神は預言者を立てられ、立ち帰りを再三されましたが聞き入れません。たとえばアモス書5章には「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」という裁きの言葉が2回続けて語られています。そのため「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け、これを地の面から断たれる。」と宣言されます。それにも関わらず、続けて「わたしはヤコブの家を全滅させはしないと主は言われる。」(9:8)と祝福が語られます。ここに神の愛があります。どんなに悪くても神はみ民を滅ぼし尽くしことをなさらないからです。アモス書の終わりには、「わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。」(9:14)という信じられない恵みが語られています。

その愛と憐れみの行為こそ、まさに預言者たちを用いて約束されていた神の最終的かつ絶対な恵み、すなわちイエスさまによってなされた愛の癒しの業です。らい病は人々から最も忌み嫌われていた病です。彼らが民衆に近づくことさえ拒否されていましたが、主はここで彼らの困窮を顧みてくださっています。

その上で、14節17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。と指示だけを示して、憐れみをもって癒されています。その時の「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という主の恵みの言葉について考えましょう。

まず第1に、信仰とは「だた受けるだけでよい」という徹底的な受け手の一方的な恩恵であることを承認し、そのような信仰を確認しましょう。第2に、望む結果を先取りする信頼です。10人の病人は祭司に見せに行く途中で癒されました。疑ったままで、行くということをしなければ癒されません。第3番目は、ただ病気が全快するというご利益的なものだけではなく、真に救われる信仰の必要性が問われています。

これが10人中のただ1人のサマリア人が持っていた信仰です。それは「神を賛美する」または「あがめる」行為、すなわち神に栄光を帰する信仰につながります。宗教改革以来の、「ただ神の栄光のため」(カルヴァン)にという信仰です。または初代教会の正当な信仰者たちの「すべては神のより大きな栄光のために」(イグナチオ・ロヨラ)という偉大な告白と賛美は、世界を大きく変えた二大信仰原理です。

(1)感謝という言葉は、ラテン語でユーカリストと言います。ユーとは「正しく」という意味で、カリストとは「恵まれていること」という意味の合成語です。神からの祝福をどのように受け止めるかという積極的な言葉です。冷たい静かなものではなく、躍動に満ちた心からの感謝でなければそれは本物ではないということです。

(2)この10人は「癒してください」と願ったのではなく、ただ「憐れんでください(エレイソン)」でした。そのように、主よ憐れんでくださいと願った自らの身を「主イエスの足下に投げ出すイエスさまとの人格的結合こそが、感謝する信仰です。つまり、私たちが本当に感謝に結び付くためには、イエスさまの足下にがばとひれ伏すことが必要最大限のことだということです。ただそれだけで良いのです。その時、主は私たちを顧み、すべての特権を与えてくださいます。

(3)「立ち上がって」とは、復活という言葉と同じ言葉が使われています。つまり、主イエスを真の救い主と信じ、救われた喜びを真心から感謝する者=ユーカリストする者には、キリストの復活の命まで与えようとの保証が与えられていることになります。

私たちを憐れんでくださる主は、もはや二度と死も悩みも苦しみも何の痛みも全くない永遠に憩い、主イエスと共に歩み続ける生活を永久に与えてくださるのです。


田無教会牧師 中山仰

閲覧数:15回

Comments


bottom of page