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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年12月20日「罪からの救い主の誕生」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書1章18-25節

  • メッセージ:中山仰牧師

 天使がヨセフに命じた「その子をイエスと名付けなさい」という言葉を中心に考えます。最後の24-25節の ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。も印象的です。

聖書において名前の持つ意味はとても重要です。例えば信仰の創始者と言われるアブラハムは、前の名前をアブラムと言っていました。偉大なる父という意味ですが、ヘブル語はハの字一字を付け加えることで複数形になるので、「すべての国民の父」と代わります。子どものイサクは年取った母親への「喜び」としてイサクと名付けられています。またその子ヤコブは「押しのける」という意味ですが、神の使者との祈りの格闘の内に神に勝って「イスラエル」と改名させられています。

 ところで、イエスという名は日本でいうと太郎さんなどのありふれた名前です。単純に考えて、すべての人を救うためには広くしれ渡った名前なのかなと思います。この子は自分の民を罪から救うからである。と続けられている内容が重要なのではないでしょうか。イエスという名前は「神は救い」という意味があります。つまりすべての罪人を救われるお方として、すべての人にとっての救いとして平凡な名前が付けられているのではないかと思っています。

二つ目にインマヌエルという名前ですが、この言葉は、預言者を通して言われていたことが実現するためであった、とあります。これは、主の御降誕から紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉です。ユダの王アハズの治世の時、周りの国から攻められて、ユダ王国は、四面楚歌の状態でした。そのような状態において、主はイザヤを通じ神が守るのでその証拠を求めなさいと命じられます。しかしアハズは「主を試すようなことはしない」としるしを求めることをしません。そこで、「主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」というところでインマヌエルが登場するわけです。ここには、アハズ王の徹底した不信仰が表されていますが、それを超えて神が御救いの約束を預言していることがはっきり表されています。アハズ王の不信仰に対する言葉が引用されているので、不思議な気がします。これは私たちの不信仰によって、主の御しるしを求めない先に、主自らがその救いをもたらすという強い神の顕現が示されています。14節の言葉にすべてが示されているではありませんか。「おとめが身ごもって、男の子を産む」というしるしは、通常の人間の想像の範囲を遥かに超えている奇跡です。「生ける神が私たちと共にいる」ことがどれほど大きな力となり、慰めとなるでしょうか。

 このことが主イエス・キリストによって実現したのは、その時から約700年後です。しかし、この時点でも神はすでにアハズを見守ってくれています。それ以降も何回も神は預言者たちをお遣わしくださって、神は常に共におられるということを伝えると同時に、歴代の王たちを助け、彼らに力を与えてくれています。そのようにしてまで神が介入してくださるのは、個人を助けるためだけではありません。彼の子々孫々にまで続くダビデの末裔の行く末を神は案じて手を差し伸べてくださっているからです。そのダビデの末にイエスさまは誕生しています。神の計画は、途中の一人や二人、いいえ殆ども者たちが逆らい不信仰を続けても、必ず成就するのです。それは神の救いの御計画の中に組み込まれた者たちの救いのためと言ってよいのです。神の約束は、人間の不信仰によって途絶えるものではありません。さらにこれから後も神の救いの御計画の中にいる私たちを通して、私たちの子孫が救われる遠大な救いの計画のためなのです。

「神が我々と共におられる」という強い結びつきを、神はまずユダヤ人と契約で示しました。旧約の指導者モーセのような預言者イエス・キリストご自身は「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネ1:17)で宣言されておられます。バプテスマのヨハネは、主イエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:9)と示しました。恵みと真理は、罪人の罪が取り除かれることにおいて実現します。

 そのためには、「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言が実現し、神の子が人となるというへりくだりがありました。しかも十字架の時「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のでした。このことも預言どおりです。それが御父の御旨だったのです。すべてが預言どおりに行われたのは、まさに神が罪深い私たちと共にいてくださることであり、人間の悪を通してでも神の御計画を実現・成就するためだったのでした。

 実際の親子関係で考えてみましょう。親としては、自分のできる範囲の中で、時には借金をしてでも子どもたちのために尽くそうと思っているはずです。そして子どもたちが甘えて要求してくることを心から待ち望んでいるのではないでしょうか。親としては何とかして子の夢や希望をかなえてあげたいと思っているものです。まして、天の御父がどうして私たちの要求をかなえないことがあるでしょうか。天の御父は、無から万物を創造された全能者です。ですから与えられないものはありません。もちろんそれが神のみ旨にかなわなけれ実現されないでしょう。

 このように、人間の罪と不信仰を贖うために、一番大切なものを与えてくださいました。それが御子イエス・キリストです。父なる神は、御子主イエス・キリストを十字架にさらし人間の罪を赦してくださいました。それによって、神が間違いなく私たちとどんな時にでも共にいることを確実に保証してくださいました。ですからインマヌエル「神が我々と共にいる」とは、私が生きている時から、そして死に至るまでも、また死後の永遠の世界においても主が共にいてくださるという約束ですから大きな喜びなのです。この尊い神の犠牲の贖いがなければ、どうして私たちは神が共にいてくださると信じることができるでしょうか。神がいつも必ず共にいてくださるという実感を得ることは神の大きな介入なのです。

 それゆえ、私たちの目には見えなくてもいつも主が共にいてくださるインマヌエルなるお方であることを信じ続けることができるのです。そしてやがて私たちも地上の旅路を終えた時に、復活の主に抱かれて永遠の命に憩うことが約束され保証されています。その喜びは、まさにこのクリスマスから始まっています。


田無教会牧師 中山仰

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