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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年8月23日「神は心を見る」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書16章14-18節

  • メッセージ:中山仰牧師

ここではファリサイ派の「自分を正しい」とする態度について追及しています。ウエストミンスター信仰告白第16章5節は「わたしたちは、自分の最良のよきわざをもってしても、神のみ手から罪のゆるしまたは永遠の命を功績として得ることはできない。その理由は、そのよきわざと来るべき栄光の間に大きな不釣り合いがあり、またわたしたちと神との間には無限の距離があって、わたしたちはよきわざによって神を益することも前の罪の負債を神に償うこともできず、かえて、なし得るすべてをなした時にも自分の義務を果たしたにすぎず、無益なしもべだからであり、またそれが善であるのは、それがみたかから出ているからであって、わたしたちによってなされる以上それは汚れており、多くの弱さや不完全さがまじっていて、神の審判のきびしさに耐えられないからである。」同6節では「しかも、それにもかかわらず、信者自身は、キリストによって受け入れられているので、そのよきわざもまたキリストにおいて受け入れられる。」とあります。「それは、そのよきわざが、この世で神のみ前に全く非難され責められるべき点がないものであるかのようではなくて、神がそれをみ子において見られ、誠実なものを、多くの弱点や不完全さを伴ってはいるが、受け入れて、それに報いることをよしとされるからである。」とあって、そのように私たちの罪深く汚れている者でも、キリスト・イエスにあってその心を捉えられるとき善き業も祝福されることが分かります。

1.このように、神の判定基準は、人間と違って「心」にあります。神の好まれる砕けた心と逆行する行為・正しさを神は忌み嫌われます。ファリサイ派の人々は、人前で「自分を正しいとする者」です。特に善い行いについて、施しを派手にすることで人目を惹き、人々の関心を誘っていました。山上の説教に、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」

 預言者サムエルは王として油注がれる者を求めてエッサイの家に遣わされたとき、息子たちの中で美しく立派な長男を選ぼうと思いますが、神は彼を退けて一番下の息子ダビデを指名します。その時、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼(長男)を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16:7)とおっしゃっています。

 ただし人は、心を見通せないことを恥じる必要はありません。むしろ判定を主に一任するへりくだりを学ぶべきです。「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(1コリント4:5)と命じられています。

2.それでは今特になぜ「心」が問題にされているのでしょうか。それは今や主イエスが来られた福音の時代になったからです。16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。と言われています。「律法と預言者」つまり旧約聖書は、「ヨハネまで」預言していました。預言されていた神の国が、今宣べ伝えられるということが現実になっているからです。

 ですから「力づくで(無理にでも)入ろうと」する求道の熱心が必要です。その熱意だけが評価されます。それ以外の何らの民族的な差別や家柄などの貴賤は全くなく、「だれもが」入ることができるという普遍性です。このように、新約時代には、「心」だけが救いの決め手になりました。

3.この「心」は、福音によってだけ励まし強められます。ただし新約時代になったからといって旧約聖書の時代を変えるものではありません。新約時代になっても「律法の文字の一画がなくなること」は決してありません。

その一例として離婚問題が取り上げられます。福音によるとあらゆる離婚を否定します。結婚は「神が結び合わせてくださったもの」ですから離縁については厳しく扱われ、ユダヤの教えでも「不貞」の男女は死刑でしたから、実質上は離婚の全面否定となります。そこで取り上げられた議論、何かといいますと、モーセは人の「心が頑固なの」で妻を離婚することを許可しただけであって、初めからそうであった訳ではなかったことが明示されています。当時は主人が気に入らなければ簡単に妻を離縁することがまかり通っていました。モーセは離縁を積極的に認めたのではなくて、そのような心が冷え切っている場合には離縁状を渡して自由の身にしてあげたほうが親切であるという理由からの判断でした。

そのようないわば最低の消極的な理由からの方法に対して、福音は頑なな心を造り変えて「初心」に戻ることを教えています。福音だけが正しい心に帰らせる力があるのです。なぜならば、主の赦しの福音こそ、神を恐れる正しい心を生み出す力だからです。

夫婦でなくても私たちには、主なるキリスト・イエスが一人一人に向き合ってくださっています。それも主は十字架の上で素っ裸で苦しみの状態において、向き合ってくださっているのです。最後まで、そのような苦しみの中でさえ、私たちをこよなく愛してくださいます。どうして私たちは平気でいられるでしょうか。主はただ悔い改めて私の下に来なさい。休ませてあげようとお招きくださいます。それによって私たちは心から安らうことができます。十字架の向こうに、復活の命があるからです。 田無教会牧師 中山仰

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