聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書17章1-10節
メッセージ:中山仰牧師
教会の中で頻繁に用いられる言葉の一つに「奉仕」があります。礼拝の司会や受け付け、説教看板描き、奏楽、献金当番・会計にはじまり、教会堂の掃除、食事会の準備といったさまざまな働きが「奉仕」と呼ばれます。
礼拝のことを英語でサービスとも言います。それは奉仕が主に礼拝の中でなさることと関係するからではないかと推測しています。というのは、奉仕という言葉は、聖書の中で繰り返し用いられています。旧約聖書では95回、新約聖書では33回登場します。旧約聖書では、そのほとんどが礼拝の場所、すなわち天幕とか幕屋と言われる移動式の神殿などでなされる祭儀的な働きに対して用いられています。
さらに新約聖書では、より多様な場所や働きに対して「奉仕」という言葉が使われています。神殿のあったエルサレムから遠く離れた、まだ教会のない宣教の地での働きにも「奉仕」という言葉が使われているのです。そのように「みことば」を語ることや、または人々の「欠乏を満たす」ことについても「奉仕」という言葉が使われています。
そのような「奉仕」の多様性がある中で、パウロは特に「霊的な賜物」である奉仕について教えています。以下のように書いています。「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。」(1コリント12:5)この場合の務めは「奉仕」です。
教会で必要とされる奉仕には、さまざまな種類があります。しかしそこには優劣はありません。説教であろうと受付であろうと同じ奉仕です。なぜなら、すべての奉仕者は「主なる神」に対してなされるものだからです。ですから「この奉仕はどこに向かってなされているのだろうか」と自問自答し、その心の方向性を常に確認することは重要です。
またパウロは「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」(ローマ15:17)と確認しています。これらのように「奉仕」はクリスチャンに与えられた特権です。全知全能の主、この世のすべてを創られ、治めておられる神さまに仕える(奉仕する)ことができるとは、何とすばらしいことでしょう。たとえそれがどのような奉仕であっても、必要とされる「奉仕」の働きに従事するときは、真っ直ぐに心の目を神さまに向け、そして誇りを持って、その役割を全うしたいものです。
それでも教会の中で奉仕を巡り、また他の生活上のことについて摩擦が起きてしまうことがあります。その時どのような御言葉によって解決していくのでしょうか。問題が容認できないような「兄弟が罪を犯したら、戒め」ることは大切です。放っておいてはいけません。その際「悔い改めれば赦してやりなさい。」ということは、上から目線で考えてはなりません。教会の純潔と一致のために戒規という戒めは必要です。しかし、そこには愛に基づくという大前提があります。それは私たち自身がみな神の前に赦されざる者であるということです。赦されざるにも関わらず、大きな借金を帳消しにしていただいた喜びをもっています。ですから戒規という裁きは辛いものですが、兄弟が愛をもって立ち帰ることを心から願って施すことです。
信仰は極端に言うと長い期間クリスチャンをしているから信仰深くなるものではありません。日々御言葉により、悔い改めつつ、小さいことに忠実に生きる時に主が与えてくださるものだからです。主イエスは「からし種一粒ほどの信仰」と主は言われます。それが本物なら、つまり自分が赦されてのみ生きられるという尺度をもって、兄弟姉妹に接することです。そこに立って自分の持てるものをもって奉仕することです。
たとえ喜んで始めた奉仕であっても、家庭の事情や体力的な課題で、続けることが難しくなることもあります。本来安息日であるはずの主日、日曜日が一部の「奉仕者」にとって抱えきれないストレスになってしまったら元も子もないのです。「奉仕者」が毎週へとへとに疲れてしまうような状態が続くことは、教会にとって健全であるとは思えません。
奉仕者に与えられた良い賜物は、すべて主から与えられたものですから、本心からそのように受け止めるならば「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』」と言えるのではないでしょうか。
私たちは神の子ですから喜んで服従するのです。ちょうど子供の父親や母親の前での行動と考えたら分かりやすいかもしれません。子供の手伝いは微々たるものであり、全く助けになりません。それどころか却って邪魔にさえなりかねない時がほとんどでしょう。それでも親は、子どもの自発的なお手伝いという奉仕を喜んで見守ってくれます。時には失敗をしでかしますが、それでも怒るどころか心配さえしてくれます。初めから完全に許されているのです。
最後に一言付け加えます。この御言葉の「僕」という語は、「奴隷」という言葉です。主御自身が私たちに仕えるために僕となってくださいました。僕すなわち奴隷です。何と神の子キリストは、私たちに仕えるため、奴隷として仕えるためにこの世にお遣わしになられました。このお方によって無償で私たちは救われました。全く主の十字架によって贖われたのですから、他人をつまずかせることを避け、もし兄弟が罪を犯したら戒めつつ、赦してやらねばならないのではないでしょうか。いや本当に主が私を愛してくれたということを受け止めるならば、赦さざるを得ないのです。私自身がどれほど大きな罪を赦されていて、計り知れない大きな恵みを受けているかを知っているからです。そのことに感謝するほかなりません。
私たちはこのような生きている神の愛の御支配のもとにおり、このお方を相手に生きているのです。どうかすべての奉仕において、疲れ切らないように労わり合いつつ、お一人お一人の奉仕がさらに充実された喜びになるようにお祈りしています。そのようにして、キリストの教会はますます強められ、立ち上がって行きます。
主の祝福が皆さまお一人お一人の上に豊かにあるように。皆様の奉仕をもってますます神の栄光が輝き現れるように。祝福をお祈りしています。
アーメン。
田無教会牧師 中山仰
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