top of page
検索
  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年11月29日「神の国に入るためには」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章18-30節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

登場する金持ちの議員は「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と(主イエスに丁寧に)尋ねています。主イエスは、十戒 の18:20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 と示します。その議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。しかし、イエスさまに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねているということは、救いにおいては確信がなかったということです。

その議員に対して18:22これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と追い打ちをかけています。

 変な言い方ですが、もしこの「持っている物をすべて売り払い」という言葉を額面通りに受け取ったとしたら、誰がいったい可能でしょうか。アッシジのフランチェスコはそのまま行ったと言われています。しかし、一般にこれをしたら家庭崩壊であり、食べて行けなくなります。

 ですからここでは、全財産を放棄しなさいというのではなく、金に頼るのではなく「全面的に神に依存しなさい」「天に宝を積みなさい」ということだと分かります。その関連で、 18:24イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。 18:25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 と言われているように、全面的に神に頼ることは難しいのだとなります。

その理解の伏線として、イエスさまが十戒の引用の仕方にあります。主イエスは十戒の後半だけを引用して、前半を省いています。なぜ大事な十戒の前半を言わなかったのでしょうか。それは隣人に対する愛をより強く気付かせるためであったと考えられます。つまり莫大なお金を自分のためにだけ使っていないかということです。それはとりもなおさず、神の御用のために用いるという積極的な心構えが欠けていることを指摘することになります。相当な金持ちでしたからそれなりに献金をささげていたことでしょう。しかし、イエスさまに指摘されたときに、非常に悲しんでいることから、本心から全霊を上げて神に仕える方向に向いている生き方をしていなかったということが分かります。

さらにこの文言の解決の糸口として、前の段落との関係を考えてみましょう。前段の「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉は、「子供のように」というものではなく「子供のように、全面的にアーメンと言って、主に投げかけ、主に飛び込むのでなければならない」ということでした。さらにその前の「ファリサイ派の人と徴税人との祈り」のたとえでは、売国奴であり、人々から税金徴収の時に上乗せをしていた徴税人の祈りの方が受け入れられたということは、神の御前に「罪人のわたしを憐れんでください」と心からの謝罪と悔い改めをもった祈りであったからでした。そして今日の段落の後の31節以下をご覧ください。そこには主イエスの三度目の死と復活の予告が載せられています。積極的な意味として、金持ちの議員に、わたしの十字架の道に従いなさいとおっしゃっているのです。お金で生かされているのではありません。私たちは自分の力で生きているのでもありません。私たちの心の中には、お金がなくても様々なこだわりがあり、それによって生きようとしています。それらをすべて捨て去らなければ、わたしに従い切れないと主はおっしゃいます。私たちの生きる道はまさにここにあるのです。

 事実19章の徴税人の一人ザアカイは主イエスに捕らえられ、悔い改めました。その時、財産の全部を投げ出していません。「主よ、財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何がだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と言っているだけです。ここにおいて、「持っている物をすべて売り払い」が全財産の放棄ではないということが明白になるでしょう。

それでは主イエスの弟子たちはどうだったでしょうか。主イエスと金持ちの議員とのやり取りを聞いていて、 18:28するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。とやや自慢しています。そこで 18:29イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、 18:30この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」とさらに厳しさを加えて弟子たちに言っています。これに関しても、家族や友人たちと疎遠になれということでは全くありません。すべての価値観の第一位を、イエス・キリストに置きなさいという意味です。神の国と神の義をまず第一にするとき、後のものはすべて添えて与えられることを信仰の試練を通して肌で教えられます。

主イエスを信じるということは、救いにつながり、神の国に生きていることを地上において喜んでいることです。なぜならば、これまでの生き方が180度変えられるからです。職場において、また対人関係において、家族関係においてでも変わります。それ自体が神の国の祝福です。永遠の命の祝福は、死んだ後というのではなく、信仰を得た現在から変わってくるのです。生きるという価値観が自己中心ではなくなるからです。キリストの生き方に倣い、キリストと共に生きるようになります。それは愛の生きざまであり、祝福の人生です。キリストのためにすべてを投げうって従った私たちに対して、どうしてこの世の富に勝るものが与えられないでおられましょう。

そのようにしてまで、イエス・キリストという方に着いて行こうとする信仰は何なのでしょうか。まず神ご自身がその模範を示してくださったからにほかなりません。私たちの救いのために、神の独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださったという恵みによります。

神は私たち罪人のために愛する独り子イエス・キリストを差し出してくださいました。それは、神から離れて苦しみ、生きる目標を見失っている私たちが神の下に帰らせるためでした。それは愛する私たちに永遠の命を与え、共に永久までも住まわせるためでした。この愛に気が付いた時に、私たちはこの方の下に、この方以外に救いはないと飛び込むことができるのではないでしょうか。聖霊なる神が私たちを憐れみ、主イエスの十字架の贖いによって聖なるものとしてくださったからにほかありません。いよいよその聖霊の神の導きを強く求めます。そして来月の御子の御降誕を、私たちの救い主として迎えることのできることを心から感謝します。


田無教会牧師 中山仰

閲覧数:57回
bottom of page