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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年12月6日「受胎告知」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書1章26-38節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 天使はマリアに対し、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と聖霊によって身ごもるという受胎告知をします。その時、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えて受け入れています。この時、マリアに逡巡はなかったのでしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように。」このという言葉は、英語に直すと “Let it be”です。

 “Let it be”は、ポール・マッカトニーの作曲した曲です。「雲に覆われた夜にも私を照らす光がある。明日まで輝き続けておくれ“Let it be”/音楽の調べに目覚めると母マリアが現れて、知恵に満ちた言葉をかけてくれる“Let it be”/すべては御心のままに、いつか必ず答えが見つかる信仰の力とは言え/すべては御心のままに、知恵ある言葉をつぶやいてごらん“Let it be”」という歌詞です。ビートルズ解散の危機が取りざたされていたときです。

同様に、マリアが天使からの受胎告知を聞いた時に迷いがなかったのでしょうか。結婚前に許嫁であるマリアが妊娠したら通常は石打ちの刑です。夫ヨセフは正しい人であったので、このことが表ざたになることを避けて密かに離縁しようとしても、二人の間には亀裂が入ったまま修復は不可能です。ですからこそ、この決断はただ事でないだけに迷わないはずはありません。

 私たちでも健診にひっかかって再検査と言われたとき、検査の結果何でもないと言われるまで多少の不安を抱くものです。大病ならなおさらです。今ですとコロナの検査で陽性と言われたら頭が真っ白になると言われています。

 それらはただ少し心労が多いとはいえ、マリアの心境とは雲泥の差があります。マリアの場合には、次元の違う大きな試練でした。まさに“Let it be”と受け入れるしかないような状態ではなかったのではないでしょうか。


 私が田無教会に引っ越してきてから二年前の2018年12月9日のアドベントの時の説教箇所と同じです。私を迎えることは、田無教会の皆様の大きな決断だったことでしょう。教会堂を建ててその返済の目途も十分に立っていない中で、牧師を迎えるということが経済的にどのくらいの出費になるか検討もつかず、一抹ではなく、かなりの不安と狼狽の中での決断だったと思います。

 その時の説教の一部です。<大きな決断、その一つの例が教会の新会堂建築ではなかったでしょうか。田無教会の皆様は信仰に基づいて、大変大きな決断と努力と献身をされました。しかし、そうでなければここに会堂がないどころか、中会の方針から田無教会の存在すら保証の限りではなかったようですから。会堂建築について少人数で難しいと尻込みをしていたらとてもできなかったことでしょう。今年度(2018年)の年報の回顧と展望を見ると、会堂建築の返済という経済的負担を抱えながら牧師招聘は絶対に困難であるとあるように、私たち人間の目には見えていたはずです。・・・私の任期は長くて5年の予定です。その間に返済の目途がついて、後任者を迎えるヴィジョンを私は描いています。このことを祈って行きます。「神にできないことは何一つない」のです。必要なものはすべて添えて与えられます。共に祈って行きましょう。>まさに田無教会の皆様にとって、“Let it be”御心ならばの最たる心境ではなかったでしょうか。

正直こんなにうまく事が進むとは誰がよそうしたでしょうか。ペトロ建設への1200万円余の全額返済、今年は教会債の早期償還、来年から中会への返済を開始しようという話が出ています。それらは皆様の祈りとご協力によります。そして途中で加わってくださった方々のご協力以外の何ものでもありません。人間は小さく、信仰は頼りないものです。しかし、それを遥かに超えた神の御計画があります。いずれにしろ、現実に今私たちの目にし、手にしている今日の祝福を見る時に、まさにこれら人間の思いを超えた業は、“Let it be”主の御心のままにと素直に喜べるのではないでしょうか。


<聖餐の恵み>

聖餐式の恵みは、何といっても具体的な食事と関係しています。事実、主イエスの流された血をぶどう酒に、裂かれた体をパンになぞらえて主の死を記念して聖なる食卓に預かっていることから明らかです。

黙示録において、食事は特に終末と結び付けられています。この思想は旧約時代からありました。しかし共感福音書にも取り上げられています。主イエスご自身が最後の晩餐の席上で、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」(ルカ22:15-16)とあるのはまさに終末の背景があることを示しています。

コリントの信徒への手紙一11章20節では、通常の食事とそれに続く聖餐を一括して「主の食卓」と呼んでいます。ここで教会では仲間割れがあるならば、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです。」と戒められている箇所です。このように、食事が交わりと関連づけられて、主イエスの霊的臨在の場として理解されていました。

キリストの教会は、主がもう一度来られるまで「主の死」を告げ知らせる役目がありますから、聖餐の一致において証していかなければなりません。実際に、食事をするときに心から和気あいあいしていなければ、現実として楽しくないし美味しくないですよね。まして、主に在る兄弟姉妹が一堂に会し、共に祈り合い助け合う教会として豊かに楽しく愛餐することの喜びはどれだけ大きな祝福となることでしょう。その趣旨はそのまま聖餐につながって行きます。私たちはこの祝福と聖餐を守り続ける義務を持っています。現在は、新型コロナウィルスの感染のために、聖餐も愛餐も中止せざるを得ない状況です。しかしこの時にあっても、繰り返しますが、この行為がどれほど大きな祝福につながるかということをさらに受け止めて行きたいと願っています。


田無教会牧師 中山仰

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