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  • 日本キリスト改革派 田無教会

2020年8月9日「不正な管理人のたとえ」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書16章1-13節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 管理人の主な仕事は会計業務です。神の国を預かる弟子の主な任務もまた、管理人の仕事なのです。10-11「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」。12「また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」とある通り管理の責任は重大です。

 ただしそこで気を付けなければならないことは、浪費・乱費です。放蕩息子が「使い果たした」と同様の乱費ということが起こりかねません。放蕩息子の終末は、放蕩の限りと飢饉によって訪れます。弟子の終末は乱費による主人の首切り宣告によって訪れます。

 そこでこの不正な管理人は自分は肉体労働をする力もないし、他の職に転じる能力もないから、「自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」という考えに至ります。16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

 管理人が失職対策として打った非常手段そのものが「不正」であることと、それに対する彼の利用した蓄財「他人のもの」であることを、聖書は認めます。ここのところで注意したいことは、彼を誉めたのが主人ではなく、主キリストがほめているということです。8節「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」はイエスさまのお気持ちそのものです。

 このたとえ話は、聖書の中で非常に分かりにくい個所の一つといわれています。この賢さとは、どこから出てくるのかを突き詰めると、それは終末の切迫を信じたところにのみ適用されるからです。それを踏まえた上で、それ以後の新生活のために手中のあらゆるチャンスを活用する熱心さをもって、自分の生涯を死に物狂いに近い真剣さの中から問われねばなりません。

 「不正な富」は「まことの(忠実な)富」と対比されています。それは終末に関係する用語です。「不正・不義」なのは終末の現世のほかありません。つきつめると、キリストを遠くから慕っているだけでは意味がないということです。「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったから」という者は、「不義を喜んでいた者」として「皆、裁かれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:10-13)その逆に「まこと」とは、預言や予型の終末的実現形態を指します。ヨハネが記す「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(4:23)という言葉に示されています。

 要するに、現世の富でもって、終末的な友をつくることが必要なのです。それが「不正な富で友達を作りなさい」と言われているところです。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」という時の、迎え入れてくれる者は誰でしょうか。それは神であるというというユダヤ教的な婉曲話法です。終末時に神を友として持てるように、真剣に手を打つべきなのです。言い換えると、現世の富でもって、極端にいうと手段を選ばないでも終末的な友と言われている、神と共になることが必要なのではないでしょうか。

 その理由としての第一は、現世で委託された富が「永遠の住まい」と比較すれば「小さい事」ではあっても、終末へのテスト・ケースである限りにおいて大事であることを認めるべきです。10-12節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」小事に忠実な者にしか大事を任すことはできません。

 第二の理由は、終末的管理のためには、富が神からの委託品にすぎないという分別が必要です。富そのものが主人のようになってしまう拝金主義は、貪欲であって、偶像礼拝です。前段の方法息子を考えていただければよくお分かりいただけるのではないでしょうか。放蕩息子とって金が第一でしたから、相続財産の生前贈与まで受けた上に、それらすべてを使い尽くしてしまいます。すなわち放蕩は単なる非道以上に、神の前に完全に死んでいることなのです。

 そのように、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない」のです。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」という言葉は真理でしょう。2つの用事に対して、時間を分割することはできても、心と愛を2つに分割することはできません。ですから、委託者の神にこそ仕えるべきです。神のみが、常に主人であり喜びであるべきです。本当に自分は死んでいたのに贖われているという強い実感に裏付けられた信仰は感謝です。

田無教会牧師 中山仰

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