聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章31-34節
メッセージ:中山仰牧師
十字架・復活についての予告は三度目ですが、暗示的にはルカには7回出てきます。
5:35「花婿が奪い去られる時が来る」。第1回目の予告は9:22で、第2回目は9:44です。12:50「受けねばならない洗礼がある」。13:32ヘロデ王に対して「あの狐に言ってやれ『今日も昨日も悪霊を追い出し、病気を癒し、・・・三日目にすべてを終える』」。17:25「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、排斥される」。そしてここの18:31は第3回目の予告です。主はこのように弟子たちに予め何回も語っておられました。
ところが、18:34十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。とあるのは不思議な気がします。ベールがかかっていたということです。共観福音書のマタイとマルコは「ヤコブとヨハネの願い」がこの直後に記されていることからその理解度が分かります。それに対して他の弟子たちが腹を立て、怒って論争となる始末ですから、どの弟子もこのいわば主キリストの一大事について全く理解できていなかったことが明白です。
ルカ福音書独自の表現を32節に見る。「乱暴な仕打ちを受け」は文語訳に「辱められ」とあります。この言葉は「思い上がり」とも訳されます。一見逆の意味のような内容です。誰かが辱められるというとき、その背景には必ず辱める側の思い上がりがあるからでしょう。元々は境を越えてはいけないという意味です。一線を越えて領域に入りこんで、そこでなお自分の重荷を主張するそういう思い上がりのことです。相手を抑えつけ、踏みつけていながらその下にされている人がどんな恥ずかしい思いや痛みを伴っているかを気づきもしないというような非人道的な思い上がりです。
その昔から私たち人間を貫く思い上がりは、どうしたらなくなるのでしょうか。ただ主イエス・キリストの恵みにおいてのみ自由になることが可能です。真実の解放を指し示すものだからです。主イエスはそこで、それらの思い上がりの力にさらされて、「辱めを受けた」のです。私たちの罪は、主イエス辱めるということさえ犯していても平気であり、気が付かないという点が最も恐ろしい悲惨なものであります。主の忠告や、主イエスご自身の言葉に従うことができるようになるためには、神の力によるほかはありません。
その典型がエマオ途上での二人の弟子たちでした。彼らはどうして愛する主が復活され共に歩みご自身のことを丁寧に説明していたのに、分からなかったのでしょうか。それこそ十字架と復活について思いが全く及ばなかったのでした。これは彼らの価値観が極めて地上的であり、この世の利益主義と変わらないからと言えます。
御父は、独り子を子の世に送り、私たちを罪から救わおうと、御子を十字架に赴かせた。それこそがまさにキリスト教信仰の真髄であり、中心です。主はエマオ途上で2人の弟子たちに何を語ったのでしょうか。旧約聖書の成就、聖書全体を通じて貫いている中心です。聖書全体を貫いている信仰の真髄こそ、十字架と復活です。なぜそれが真髄なのかと言いますと、そこにのみ罪の赦しがあるからにほかなりません。それ以外にないのです。十字架と復活にしか私たちの生きる道はないですし、生きる意味がないのです。主に従う者は、従いたい者はただ主の十字架を仰いで、心を天に向けることが求められておられるのです。
長年信仰生活を送っても信仰の真髄が分からないこともあります。信仰年月は全く関係ありません。
キリスト教信仰は平和だったり、人殺しの否定であったり、一般的に思われている善行があげられますが、すべての信仰の中心・真髄はただ十字架なのです。そこに目が開かれることを通してのみ知りえるものです。長年信仰生活を続けていても、牧師であっても本心から求めていなければ見えないのです。福音とは、幸福の訪れの意味。英語ではグッド・ニュースの方が分かりやすいことがあるかもしれません。私たちの救いは、十字架だけではありません。十字架と復活がセットなのです。十字架の苦しみに対して、それが私の罪の故であると本当に信じ、告白する者にとってはその瞬間、復活の喜びに満ち溢れるのです。信じられないような逆転です。自らの「思い上がり」の罪に打たれたとき十字架が働いて罪が赦される喜びに預かります。その瞬間、その感謝の思いは私たちが想像すらできない復活という永遠の命に預かるのです。
そのように人の信仰の証が分かるのは、生き方であります。最後の所で信仰の基本的なものをもっているかどうかで分かれます。重い闘病の中で、主イエスを知り、主と共に歩む人生を選び取れた人は何と幸いでしょうか。十字架の向こうに復活があるということが確かだからです。主の御苦しみは、復活によって贖われ完成するのです。
ですから究極的には、その人の価値は、その人の死を通して分かるのだと思います。どんな生き方にしろ、途中で病と出会おうと、ぎりぎりのところで十字架と復活の主イエス・キリストに結びついているかどうかしかありません。素直に素朴に、純粋に復活信仰に支えられるということは、本当に私の罪がキリスト・イエスの十字架の死によって完全に赦されており、主と共に永遠の命に生きるという喜び以外にありません。その生き方を私たちは先人から教えられ、今日の個所のような「主の十字架と復活」を通して知っていますから、私たちもまた後を追う者として、その信仰に共に生きるのです。
田無教会牧師 中山仰
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