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日本キリスト改革派 田無教会

2021年2月21日「神からの預かりもの」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 19章11-27節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 このムナのたとえ話は、マタイのタラントンの話と似ている。しかし背景が少し異なる。1タラントンは6000日分の賃金であり、その60分の1(100日分:3か月分の給与)が1ムナである。ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。とあることが大きな違い。

 そして最後に清算した結果と19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」とても厳しい点である。このように、ルカ版は終末的性格を帯びていると言われている。自分の国を離れて遠国へ行き、王位を授かって帰る尊い家柄の人は、この世を去り、栄光に包まれ、王として再臨する人の子を指すことは間違いない。僕である弟子たちにとっては、主の再臨までの期間は試練の時であり、その間に託された資本、すなわち天の恵みをふやす期間でもある。そして主イエスの再臨の際、その上げた利益の高によって報いを受ける。

 労働奉仕の基準は、主人に対する態度から出る。主を厳しい恐ろしい人と見るか、憎んでいるか、それとも忠実に仕える対象として喜んで働くかによってはっきり分かれる。

 植村正久という明治期の優れた牧師は、この個所から「臆病」と題して説教している。

<この男は主人のお金を着服したのではない。主人をないがしろにしたのでもない。ただ主人が怖かった。主人の金を預かって自分の金のように使うことはできなかった。これは信用して預けてくれた主人の信頼を裏切ることだ。主人である神は、私たちと共に神の財産を自分の財産であるかのように使うことを求められた。それほどに広やかな心で、人間に惜しみなく神の宝を委ねるお方なのだ。3番目の僕はこれを埋めてしまった。土に埋めることによって、彼は自分の命を埋めたようなものだ。>

 その理由は何なのだろうか。他人と比べて、自分が小さく見積もられたことをひがんだのであろうか。タラントンの話と違って、ここのルカ版は10人皆一律に1ムナずつが与えられている。その点では平等なのに、差は全くないのに逆に自分はもっと大事に思われていてもいいとでも思っていたのだろうか。しかし主人のお気持ちはというと、彼の喜びに預かることができるようにと私たちを励ましておられることは間違いない。それを読み取ろう。

 十字架は、ただその悲しみをもって最後としているのではなく、愛の喜びの中で、主イエスが担ってくださったものだ。喜んで十字架におつきになった。その方が喜んでこの譬えを語っている。その喜びの中に、その主イエスの愛の喜びの中に預かることができるようにと主イエスが招いてくださる。さあ来るのだ。この喜びに入るために、今あなたに委ねているもの、あなたの持っているものすべてを生かしたらよいのだ。

 改めて、この第3番目の男の心理面から推測してみよう。彼は主人から預かった宝をどのように保存するかは考えたが、どのように生かすか、どのように用いるかは考えることがなかったようだ。周囲の状況がもって寛容ならば、積極的に生きたかもしれない。でも蒔かれた種は石地に落ちて鳥が奪おうとするかもしれないし、茨の中に蒔かれる時に成長の早い茨が私たちの進展を覆うかもしれないのだ。

 この男がもっとも恐れたのは、主人よりも世間であったろうとこの言動から理解できる。その過程の中で、主人を恐れたことも確かであろう。だからそれだけにますます窮地に陥った。この恐れの言葉の中にはっきり語られているのは、主人を信頼していなかったことだ。

 この宝とは何を意味するのか。①牧師や説教者にとってはそう考える。自分に委ねられた神の言葉を信じ切って、ただひたすら神の言葉を神の言葉として宣べ伝えることができなくなる。それは、世間を恐れるから。戦争中はもっぱらその心理が働いた。②またある人は、そのムナは私たちに与えられた小さな愛の力だと理解する。どんなものにも対してでも、ひたすら愛に生きるように戒められた。愛こそ宝なのだ。その通りに生きようとする。しかしどこかで、こんなつまらないこと、こんな損することはしたくないと心ひそかに思い始める。その愛の小さな灯に覆いをかけて布にくるんでしまう。③あるいはまた実際に、これはまさに私たちに委ねられた金銭だと考えることもできる。与えられたものをどのように管理するかが問われる。主イエスは、実に様々な賜物をミナとして与えてくださっている。それを与えられたまま生かすことが求められている。

 そのように私たちは、主イエスが求めておられるように真実に主イエスを信じ切って、その御言葉に生き、愛に生き、その義に生きることを始める時、この主イエスの言葉を恐れる必要もなくなって来る。たとえ私たちが過ちを犯し、時に不信仰の罪を犯すことがあっても、主イエスご自身が立ちふさがるようにして、私たちを滅びから守ってくださることを知ることができる。それは、主イエスご自身が語った、この言葉が私たちの現実にならないように、ご自分で語る裁きの言葉に、ご自身の身をさらすようにして十字架につけてくださったから。

 主イエスが十字架につけられたのは、私たちの命の重さをご自分の十字架における死をもって量ってくださったということ。人の命は、ご自分の十字架の死によって神に訴え、神の赦し求めるご自身の祈りによって、神との新しい結びつきの中に生かされ直す。

 十字架は、ただその悲しみをもって最後としているのではない。愛の喜びの中で、主イエスが担ってくださったものだ。喜んで十字架におつきになられた。その喜びの中に、主の主イエスの愛の喜びの中に、主イエスが招いてくださる。さあ来たれ、この喜びの中に入ろう。主イエス・キリストは、あなたに委ねたムナをもって、すべてのものを活かしたらよいと招かれる。


田無教会牧師 中山仰

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